〇理想の鞄問題~多すぎる判断基準について~〇

 

今日は風が強いです。

こんな風が強い日、明日はいかにも雨が降りそうな。

 

晴れの日、雨の日、荷物の量、場所、、、

一番適した鞄を持ちたいと思うと、どうしてもいろいろなポイントによって、使うバッグが変わる。

 

私がバッグ選びで考慮するのは以下8つ。

 

①素材

・たくさん歩きたい時はナイロン等軽くて、雨に当たってもOKなもの。でもたまに物凄く重厚な革の、昔のがっちりしたスーツケースのような、ごっしりしたものがほしい時もある。夏は藁で編んだみたいなものもいいね。無性にダウンの入ったのがかわいいと思うときもある。

 

②ポケット

・なるべく収納が多いものが良い。でも、たまに凄くシンプルな、全く金具もポケットもついていないものがほしくなる。

 

③ハンドルの長さ

・肩からかけたい。ハンドバックに対するぬぐえない筋トレ的イメージ。そして絶対ひったくられるという恐怖。でもたまに、「何入れるためなの?!」っていう小さいバッグで、身軽に行きたい。

 

④ハンドル自身

・以前外出中に取っ手がちぎれた経験から相当な強迫観念が生まれ、全体の印象の次にハンドルの付け根を見るようになっています。本と水筒が入るかを無意識に考慮する私は…でもたまに、というか頻繁に、細いハンドルのものを持ちたい。携帯と財布とハンカチその他だけでいい、なんなら財布すら持ち歩きたくない!ひょろ~っとしたバッグにばかり目が行くことも。

 

⑤色

・もう黒とかベージュでいいよ…という安定を求める自分と、突然蛍光黄緑に目が行ってる自分。目立ちたいと目立ちたくないに揺られて。

 

⑥柄

・無地だったら何年先も、一年中使えるし落ち着く。というエコ&面倒臭がりな自分と、エスニック柄やそれ以上にがっつりと柄の入ったものに目が行く自分。

 

⑦マチ

・とりあえずは長方形の方が安定するから選んでいるけど、そんなわずらわしさもすっ飛ばして円とか四角を持ってみたい。

 

⑧チャック

・絶対についていてほしい。という安全を求める自分と、もうそんなこと気にしないでひょろっとした藁で編んだバッグが持ってみたい時。

 

⑨大きさ

・A4必須な自分と、携帯とハンカチだけで過ごしたい自分。

 

 

 

真逆の条件で悩んでます。

最近のマザーズバッグとか、ビジネスバッグなどが最高だと思う一方、頼りないショルダーバッグにあこがれと不安を持つ自分。

 

これだけ単純に真逆の鞄がほしいのであれば、それぞれ満たす一番のものを探せばいいけれど

そんなに簡単ではなくて、無数の鞄があればその分それぞれの鞄に魅力を見つけてしまって結局、いったい自分がどんなものがほしかったのかわからなくなって終わる。

 

鞄選びも結構体力が要りますね。

 

今回はひとまず。

 

 

 

 

〇ぴったりが安心?〇

 

3月半ば、窓を開けても外気の温度差を感じない、そんな少し違和感のある季節がまた廻ってきました。こんな生ぬるい温度の時期が一番落ち着きます。

 

。。。

話は大きく大きく全く関係ないところへ変わりますが、私は小さいころから、歌うことはとりあえず大好きでした。ただのど自慢大会に参加するとか、バンドを組むとかカラオケに行くことですらそういった発信することは一切しなかったので(引っ込み思案)、周囲には私が歌っているイメージはゼロに等しいはずです。

保育園の連絡帳にも書かれていました。

ほんとうはキッチンでもお風呂でも熱唱してしまうので、なんででしょう。

恥ずかしいんですかね。

 

そこで、最近というかずっとじわじわ感じていることがあります。

歌手がライブでアレンジしたときに「これじゃない感」を感じてしまう、んです。

 

これってどうなんでしょう。つまらない奴だ、と。自分では思います。

自分が次に来ると思っていた音が来なかったときの軽い落胆。思っているリズムを外れたときの、焦り?

音程とリズムがなじみある物の方が安心するんです。

 

ですが。

外国語の歌は割に大丈夫な気がします。

 

ここまでは、私個人の問題でしょうということですが、

・SNSやYouTubeでの歌ってみた

・うたうま番組

 

うまいと言われる方々は皆、きちんと音程が取れているかどうか。

カラオケの採点機能は象徴といえます。

 

ですから、在るべきところにきちんと当てはまっているのを美と感じるような気質がはぐくまれたか、

はたまた日本と外国語(一概に言えませんが)は、アレンジのかけ方が違うか、、、

慣れ親しんだ言語ではないから、歌詞含めた全てがメロディとなってリズムを重視しなくなるからか。

 

 

物凄く主観的な問題提起かつ結論になりますが汗

同じことを感じる方はほかにどれくらいいらっしゃるんでしょう。

 

あ、あともう一つ、割に外国語の歌は伸ばす音の時に音程の上下で表現を加える場合もおおいですね。

日本語は、ひとつだけの音を高くするとか、入りを溜めてみたりとか。

イメージですが^^;

 

最終的には、単なる文化の違い?

どうしてこの違いが生まれたのでしょう。

 

どちらが良いということではありませんが、おもしろい風潮ではありませんか。

〇銀座区立小学校制服について、経験を交えて〇

 

 

小学校、記憶のかなたに飛んでいったかな?と思いきや、まだまだいろいろなことが思い出に残っているものですね。些細な面倒だったこと、些細な感動したこと、些細な傷ついたこと、感謝したこと

私は町中に立つごく普通の区立小学校で育ちました。特に有名人がどうとか、何に特化しているとか、そんなこともあったかなかったのか判らないくらい普通に住宅地に溶け込むいち小学校。そんな環境でも、瞼によみがえる経験は数多くありました。

 

今巷と国会で話題になっている「アルマーニ標準服」案件。

あまり周囲の意見は聞いておりませんが、皆さんはどんな風にこの決定を受け取られたのでしょう。

 

個人的には、あまり芳しい決断ではありません。というより、校長が制服に何を求めるかという所に共感できかねるのです。

 

※まず前提として「標準服」とは本来着ても着なくてもいいよ!という物です。が学校という現場で予想される通り、私の中学生時代は100%が着用する当たり前の存在でした。まして入学を考える価格となれば、その中で自ら非着用を敢行するにはかなりの覚悟が要ります。

 

 

ーその価格もさることながら、高価な制服を導入することで小学生の所属意識を高める

方針に疑問を持ちます。

 

まだまだ体を育て、同時に周囲との関係をはぐくむのに忙しい時期にどれほどの子供たちが、制服や学校に対する誇りを持ち得るでしょうか。私に関していえば先生、様々なバックグラウンドを持つ友人から得る世界、独自の授業(ハンディキャップの疑似体験等)は特に貴重であったと思っています。

何ならばちゃっかり先生がバッグにお菓子をたくさん詰めていた(事故的に判明し、はぐらかされ決してもらえず)ちょっとアウトな思い出すら、先生を身近に感じさせてくれた一コマでした。

 

これでも何のブランドも持たないただの小学校です。

 

あれほど公に誇れるような小学校なのであれば、きっと学習要綱面で試行錯誤されているでしょうし、それを求めていらっしゃる親御さんもすでに多いのではないかと想像します。

 

校長先生はご自身の小学校時代何を大切にし、今何を伝えたいとの思いをお持ちなのでしょう。もしかしたら決断を焦ったのかとの推測もします。

 

今後、大人子供かかわらず何かを教え、支える立場となった時自分は何を残したいと思うだろうか。何にお金と想像力を注ぐべきか。久々に想像を膨らませました。

〇個人情報で身を飾る未来〇

 

近年急速に、個人認識の手段が顔・網膜・指紋等の身体へと移っています。

またマイクロチップを体内に埋め込む~に至っては「データ」を持ち運ぶことが可能です。
持ち物が格段に減りながら、常に必要な情報と共に在ることが出来るというのは魅力的です。


ところでこれが進むにつれ人体そのものが危険に晒されるリスクは非常に大きいといえるのではないでしょうか。

 

現在でも恐喝や暴行等で本人から情報を引き出すやり方は存在します。
ですが比較的現金、紙面、機器などの人体と距離を置いた「物体」に役割を持たせることで、盗まれる、すられる、ひったくられるという安全策を取れていた気がします。

 

重要なものを人体に近づければ近づけるほど、関連させれば関連させるほどリスクを個々の身に近づけるように思います。

今はまだ日常生活の中では携帯電話等、超私的に用いるのが大半であり、さほど危機感はありません。

 

将来、ロック解除などにも適用されれば極端な話、目の前の個人にかかわる情報は全て目の前に揃う状況が完成します。

私はこの進化に対し上記のように疑問を感じています。
大変勇気ある行為だと思うのです。

 

私が先端技術に疎いゆえか、機械に疎い為かはたまた生まれながら、既にある程度の技術が揃っていたお陰でか

このような「新しい技術に対する不安」はとても新鮮であり、昔テレビや車に向けられた感情を味わっているように感じます。

 

こう書きつつも未来での私はそれらを受け入れているのでしょうか。

とても興味深く、注視したいと思います。

〇ふと襲われる「持っていていいの?」という感覚〇

 

冬も一段と深まり、誰かと速足で歩きながら交わす会話も

好きだなと思う日々です。

 

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今日は特に紹介記事でもなく、自分の内面について。

 

たまに襲われる、自分の持ち物についての違和感。

これは一体何なのでしょう。

 

衝動買いしてしまったから、ではなく。

自分が吟味に吟味を重ね、何週間も、また1年前からほしいと思っていて

ついに自分にぴったりのものを見つけた!!

それなのに、

 

ふいに、これは本当に自分の手元にあるべきものなのか?

自分なんかが持っていておこがましくはないかと

無性に申し訳ないという感覚に襲われるときがあるのです。

 

普段からあまり衝動買いには至らず、本当に気に入ったと思うものを周囲におきたいと注意して買い物をしているので

良く言う「いつか使う」が大抵訪れる(やっかいですが)たちです。

「どうしてこんなに素敵なの?」と語りかけられるくらいに自分の持ち物には満足しています。

逆もまたしかり。ジップロックやタッパー、100均も助かる存在です。

 

 

ところで、この「気に入ったものだけ」という状況は数年前からブームとなる片付け術に通じるものですが、

少しものに自分を写しすぎているのでは、と思うのです。

 

「ゆだねる」「投影する」「同一化」等々言葉選びが難しいのですが、

つまり「物」と「自分の存在」を強固に意識しなければならない。

私の場合の物選びは、そういった感覚です。

 

『あまり気に入っていないものを見せたくない、それは自分ではないから』

 

大切で、思い入れがあるからこそ、それ以外を身につける自分は自分ではない。

周りにある物すべてが私を表すもの、自己表現

 

ですから例えば歌やダンスに自分のすべてを託すときに魂を込めるように

写真を撮った時気に入らない写真は人に見せられないように

自分が認めた以外のものはおけない、人にさらせない

更には物が存在するには認めるための「理由」が必須である…

 

これは少し究極的に描きましたが、

持ち物にこだわりがあるというの頑固に見えて、じつは当人も辛いのかもしれません。

 

数年前特に考えず流行の服を買い物を買い、をしていたころは在る意味物とのつながりも薄かったように思います。

 

長年使えるものを買うのがもっぱらの私の常ですが、

もう少し気楽に、周りの空間と付き合う方法はないかと考えています。

 

〇ひとり歩きの会話集〇

 

初めて海外旅行に行こうと思った時、

 

・現地の言葉を勉強してみる

・英語を頑張る

・同行者にゆだねる

・現地で覚える(素晴らしいです!)

等々様々な方がいらっしゃると思いますが、

私は、理想としてはその土地の言葉を覚えて行きたいと必死で覚えようと努めたい、、タイプです。努めるのと、実際に使うのかは別です;

 

ともかく、今まで私は「このままでは全くコミュニケーションが取れない」というような域の国には行ったことが無く、

せいぜい旅行ガイドの最後についているページを丸暗記してみる程度の努力です。

 

以前は私も自分の言葉で意思疎通をしたいと息巻いた時はありました。

ただ理想の本がひどく見つからず。

その時に勉強していた言語であったので、

 

①一から文法を勉強するほどではない

 

②なるべくたくさんのシチュエーションを掲載してほしい

 

そして最終的に選んだのが

 

JTBパブリッシング 出版

『ひとり歩きの会話集』

英語 (ひとり歩きの会話集)

英語 (ひとり歩きの会話集)

 

 

 

体感としてかなり掲載文・単語が多いと感じました。

更に英語以外の言語であれば、英語が併記されていますのでより身に沁みやすいのではないでしょうか。

ガイドブックですでに鞄は埋まっているでしょうから、手に収まる小ささ、というのも

重要でありました。

 

「おすすめは何ですか」と聞いても返答が分からない…ことも、食材が割に豊富に載っているので不安も減ります。

 

シチュエーションごとにインデックスされているので(これがほかの本と違うところです)

入国・出国・移動・エンタテインメント・トラブル

正直、そんなことまで想定を??と思うまで^^

 

イラストの多さも、意外に重宝する「標識の見分け」や「料理の判別」

にとても役立ちます。

 

とりあえずこの本があれば、旅行に際してはほかに要らないかな、ととても安心したのを覚えています。

 

英語にせよ他言語にせよ、本にある文を見て「こんなこともあるのかもしれないのか!」とイメージトレーニングしてみるのもたのしいですね。

 

旅行を決断して、意外に手間取るところであると思いますので、

どなたかにお役に立てばと思いご紹介しました。

 

コミュニケーションが取れるととても自信になりますよね。

ぜひ、迷っている方が居れば手に取ってみてください。

〇写真を撮ることがすきだと思う幸せ

 

あの時の自分の写真を見ること、

好きですか?苦手ですか?絶対に見たくありませんか?

私は、「そもそも写真を撮ることに何の価値も見出せない」でした。

 

その私は今、日に何十枚写真を撮ることを前提にSDカードを吟味しています。

 

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小学校中学年くらいからでしょうか?

昔、私は

写真を撮ることの何が楽しいのか、なぜ私にカメラが向けられるのかわかりませんでした。

一応インスタントカメラを、年下の親戚の子に影響されて「ほしい」とねだったりもしましたが、結局対して印刷するでもなく。カメラやフィルムが今どこにあるのでしょうか。そもそも一体何を撮ったのか全く覚えていないのです。

 

中学校の卒業式か何かの節目に写真を撮ってくれた女の子がいて、直後「いい笑顔!」と言ってくれたのですがその時私は、こんなひきつった笑顔しか写れなくて、期待に応えられなくて申し訳ないなという思いがほんの一瞬で頭を巡りました。

また同級生と写真を撮る時、ぼさっとしたまま、姿勢もままならないまま、

苦痛でしかないといいたげな苦笑いを浮かべ力弱いピースと花束に挟まれた私が居ました。あの時の感情は覚えています。

 

高校の入学式、合格発表、何故こうも覇気がないのだと疑問がわくほどでした。

卒業式、クラスメイト一人一人の写真を載せる為にとってくれた写真、一人一人に設定があったのですがそれをあてはめられたとき「何も特徴が無いからその役割を当てられたのだ」と。

 

ネガティブ極まりありませんが、恐らくそれは態度にもにじみ出ていたので

今後友人に打ち明けても「そうだったんだ」とあまり驚かれない気がします。

 

よって小中高校生までの写真は、私にとって黒歴史の羅列のようなもので、

見るに堪えないものでした。

 

 

変化を見せたのは大学生のあたりからでしょうか。

 

 

 

 

ー写真を撮ることの意味は何なのでしょうか?

自分の成長記録?日記?

私にとっては、自分がその瞬間どんな感情を持っていたのかを

記録するものです。

ここ何年かで解りました。

 

携帯電話で気軽に写真が撮れるようになって、カメラよりも日常的に、保存されている写真を見ることが多くなりますよね。

この時の心の動き、情動が圧倒的に以前と異なることを発見したのです。

 

「本当にたのしかった」「生き生きしていた」「嬉しかった」「しんみりしていた」

 

等、自分がどんな感情を持っていたのか再確認できる場であり、とても強く影響されることが分かりました。ただの風景写真でも同じです。これを撮っているとき、周囲でこんなことが起きていた。誰かはこう言った。それに対し自分はこう答えたということがかなり鮮明に思い出されます。逆にそれほど感情が動かされないものにかんしては未練はありません。

もっとも「写真」が持つ効果として一般的ですが、それまでなにも無かったところには大きな革新でした。

 

このような価値観を持ち、

以前の写真(を見返すのが)嫌いは、根本的に自身の写る姿勢が好きではなかったといえます。それが自分の顔が嫌いという事に繋がっていた。

消極的で、はっきりと感情を出さず半端な顔をしているとき、その胸中で渦巻く不満が一体なんであったか、以外にも強く思い出されるのです。

写真を見返すたびに過去の鬱屈を見るのですから、写真嫌いも当然です。

 

明言すると、自分が全力で笑っている写真は嫌いではありません。

むしろたまに見ます。

何か吐き出せない感情を抱えていた日の写真を見るのはつらく、割にすぐ消してしまいます。

 

ですからわたしは人と写真を撮るときはなるべく楽しんでいる顔で写るようにしています。

風景写真には、自分の趣向を載せるように。

 

 

それが撮ってくれた人への感謝に、そしてのちの自分の活力になるためです。

自分を肯定するためです。

 

写真に写る自分が嫌いだという人がいたら、自分が理想通りに写るか?

あぁまたこんなひどい顔で…とかんじるほど自分に対し向き合ってしまうのならば、

その自分との対話に「自分が幸せであった」記録はプラスになり得ませんか?

 

写真を撮っているときからのちを想像し落ち込まず、

その時を楽しむ、あなたを記録してください。

 

実際に写真を見返した時一緒に写る子の美醜は気になりません。

私には彼らがどんな感情を持っていたのかのほうがよっぽど気になります。