〇ふと襲われる「持っていていいの?」という感覚〇

 

冬も一段と深まり、誰かと速足で歩きながら交わす会話も

好きだなと思う日々です。

 

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今日は特に紹介記事でもなく、自分の内面について。

 

たまに襲われる、自分の持ち物についての違和感。

これは一体何なのでしょう。

 

衝動買いしてしまったから、ではなく。

自分が吟味に吟味を重ね、何週間も、また1年前からほしいと思っていて

ついに自分にぴったりのものを見つけた!!

それなのに、

 

ふいに、これは本当に自分の手元にあるべきものなのか?

自分なんかが持っていておこがましくはないかと

無性に申し訳ないという感覚に襲われるときがあるのです。

 

普段からあまり衝動買いには至らず、本当に気に入ったと思うものを周囲におきたいと注意して買い物をしているので

良く言う「いつか使う」が大抵訪れる(やっかいですが)たちです。

「どうしてこんなに素敵なの?」と語りかけられるくらいに自分の持ち物には満足しています。

逆もまたしかり。ジップロックやタッパー、100均も助かる存在です。

 

 

ところで、この「気に入ったものだけ」という状況は数年前からブームとなる片付け術に通じるものですが、

少しものに自分を写しすぎているのでは、と思うのです。

 

「ゆだねる」「投影する」「同一化」等々言葉選びが難しいのですが、

つまり「物」と「自分の存在」を強固に意識しなければならない。

私の場合の物選びは、そういった感覚です。

 

『あまり気に入っていないものを見せたくない、それは自分ではないから』

 

大切で、思い入れがあるからこそ、それ以外を身につける自分は自分ではない。

周りにある物すべてが私を表すもの、自己表現

 

ですから例えば歌やダンスに自分のすべてを託すときに魂を込めるように

写真を撮った時気に入らない写真は人に見せられないように

自分が認めた以外のものはおけない、人にさらせない

更には物が存在するには認めるための「理由」が必須である…

 

これは少し究極的に描きましたが、

持ち物にこだわりがあるというの頑固に見えて、じつは当人も辛いのかもしれません。

 

数年前特に考えず流行の服を買い物を買い、をしていたころは在る意味物とのつながりも薄かったように思います。

 

長年使えるものを買うのがもっぱらの私の常ですが、

もう少し気楽に、周りの空間と付き合う方法はないかと考えています。