〇写真を撮ることがすきだと思う幸せ

 

あの時の自分の写真を見ること、

好きですか?苦手ですか?絶対に見たくありませんか?

私は、「そもそも写真を撮ることに何の価値も見出せない」でした。

 

その私は今、日に何十枚写真を撮ることを前提にSDカードを吟味しています。

 

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小学校中学年くらいからでしょうか?

昔、私は

写真を撮ることの何が楽しいのか、なぜ私にカメラが向けられるのかわかりませんでした。

一応インスタントカメラを、年下の親戚の子に影響されて「ほしい」とねだったりもしましたが、結局対して印刷するでもなく。カメラやフィルムが今どこにあるのでしょうか。そもそも一体何を撮ったのか全く覚えていないのです。

 

中学校の卒業式か何かの節目に写真を撮ってくれた女の子がいて、直後「いい笑顔!」と言ってくれたのですがその時私は、こんなひきつった笑顔しか写れなくて、期待に応えられなくて申し訳ないなという思いがほんの一瞬で頭を巡りました。

また同級生と写真を撮る時、ぼさっとしたまま、姿勢もままならないまま、

苦痛でしかないといいたげな苦笑いを浮かべ力弱いピースと花束に挟まれた私が居ました。あの時の感情は覚えています。

 

高校の入学式、合格発表、何故こうも覇気がないのだと疑問がわくほどでした。

卒業式、クラスメイト一人一人の写真を載せる為にとってくれた写真、一人一人に設定があったのですがそれをあてはめられたとき「何も特徴が無いからその役割を当てられたのだ」と。

 

ネガティブ極まりありませんが、恐らくそれは態度にもにじみ出ていたので

今後友人に打ち明けても「そうだったんだ」とあまり驚かれない気がします。

 

よって小中高校生までの写真は、私にとって黒歴史の羅列のようなもので、

見るに堪えないものでした。

 

 

変化を見せたのは大学生のあたりからでしょうか。

 

 

 

 

ー写真を撮ることの意味は何なのでしょうか?

自分の成長記録?日記?

私にとっては、自分がその瞬間どんな感情を持っていたのかを

記録するものです。

ここ何年かで解りました。

 

携帯電話で気軽に写真が撮れるようになって、カメラよりも日常的に、保存されている写真を見ることが多くなりますよね。

この時の心の動き、情動が圧倒的に以前と異なることを発見したのです。

 

「本当にたのしかった」「生き生きしていた」「嬉しかった」「しんみりしていた」

 

等、自分がどんな感情を持っていたのか再確認できる場であり、とても強く影響されることが分かりました。ただの風景写真でも同じです。これを撮っているとき、周囲でこんなことが起きていた。誰かはこう言った。それに対し自分はこう答えたということがかなり鮮明に思い出されます。逆にそれほど感情が動かされないものにかんしては未練はありません。

もっとも「写真」が持つ効果として一般的ですが、それまでなにも無かったところには大きな革新でした。

 

このような価値観を持ち、

以前の写真(を見返すのが)嫌いは、根本的に自身の写る姿勢が好きではなかったといえます。それが自分の顔が嫌いという事に繋がっていた。

消極的で、はっきりと感情を出さず半端な顔をしているとき、その胸中で渦巻く不満が一体なんであったか、以外にも強く思い出されるのです。

写真を見返すたびに過去の鬱屈を見るのですから、写真嫌いも当然です。

 

明言すると、自分が全力で笑っている写真は嫌いではありません。

むしろたまに見ます。

何か吐き出せない感情を抱えていた日の写真を見るのはつらく、割にすぐ消してしまいます。

 

ですからわたしは人と写真を撮るときはなるべく楽しんでいる顔で写るようにしています。

風景写真には、自分の趣向を載せるように。

 

 

それが撮ってくれた人への感謝に、そしてのちの自分の活力になるためです。

自分を肯定するためです。

 

写真に写る自分が嫌いだという人がいたら、自分が理想通りに写るか?

あぁまたこんなひどい顔で…とかんじるほど自分に対し向き合ってしまうのならば、

その自分との対話に「自分が幸せであった」記録はプラスになり得ませんか?

 

写真を撮っているときからのちを想像し落ち込まず、

その時を楽しむ、あなたを記録してください。

 

実際に写真を見返した時一緒に写る子の美醜は気になりません。

私には彼らがどんな感情を持っていたのかのほうがよっぽど気になります。