〇一人旅行と「本当の自分」について。

 

一人旅行を私は、とても好きです。

 

一人旅行と一言で言っても、目的や形態は様々。

また日数、宿泊所、食事等も様々、特に「一人旅」の方々はとてもそれらを愉しんでいる印象があります。

今日は、私がなぜ一人の旅行を好きなのかについて。

 

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私は一人旅とまで称せるものは一度もしたことがあらず、また今のところ世界中を旅したいというような衝動もありません。

ただ「一人で異国を探検している」という感覚自体が好きなようです。

ですから1か月以上の長期間であったり、何か国も移動したり

もちろんそのような体験は、出来ることならば一度はしておくべきものだとは思いますが

期間が重要なのではないようです。

 

では、なにが大切なのか。

それは少し大袈裟ですが、自分の存在を実感する、ということです。

 

〇私の旅行形態は、

1.宿・・ある程度の安全性を考慮し、価格重視。ドミトリー可。一度勢いで利用し、宿舎の選択肢が大幅に増えました。

→日本では宿泊といえば自身も「ホテル」「旅館」などきちんとしたものが浮かびますが、海外ではなぜか突然好奇心からドミトリーやお家を改造した…ホテル?など、いろいろ視野に入れて考えます。

 

2.食事・・朝食バイキングも好きだけれど一人の時はスーパーで購入し部屋で。レストランよりもご当地ジャンクフードが好きです。ハンバーガーやケバブも大歓迎です。

→ホテルでの食事は日本と変わらない気がしてしまい。スーパーのおもしろい味のもの、便利グッズ、ゲテモノを見ることが本当に好きというか至福と言い切ってもいいくらい好きです。パッケージの文字に、自分がどこにいるか認識させられ、色合いに国民性を感じ、文房具やキッチン用具から生活を想像し、、楽しみが尽きません。

 

3.移動手段・・場合によりけり。徒歩であれば迷うもよし、バスや電車は生活感が感じられて好き。夜行バスで一夜越すのも楽しかったです。

→元から歩くことが好きなのではありません。旅行先ではスイッチが変わったように歩き始めます。迷って3時間ぶっ通しの後も全く自責感が湧かず。通り過ぎたところがおもしろそうだから入る。いい天気だからベンチに座る。今見た場所が好きだから今日もう一度来よう。食事がおいしくなかったがそれもいい経験だ。迷うも、食事の時間を逃すも、すべてが、疑いようもなく自分の責任になるというのがここまで精神的に楽だということ。いい意味でまさに「スイッチ」が入ったように自分の周辺状況を第一に考える。頭ではなく心や体が、自由だといっているような感覚です。

 

4.荷物・・普通にスーツケース利用です。バックパックは憧れますが、地面を引きずれる楽さに折り合いを付けるには。

→小さいサイズのキャリーを使ってから、もっと普段からキャリーを使えればと、思考が逆戻りしています。

 

5.対人・・積極的に声をかけ友達を、というのは全く得意ではありません。ラウンジで声をかけたり、旅先で友達を作るというのは本人にとってたやすいかもしれませんが私にとっては素晴らしい才能です。道や施設で人に聞くことには積極的です。

 

 

 

大体このような感じで、全体的にみると別に変わったところはありませんが、

よくみるとあまりその町にいる醍醐味を経験しようとしていないというか…

おいしいものが食べたい、きれいなホテルに泊まりたい

よりも

地元の生活に密着したい。旅行者としてではなく。

 

例えばスーパー、ホームセンター等「生活感」を感じられる場所に行って、

お客様向けの接客ではなくその町の自然体な接客をされたい。

 伊勢〇よりも西〇、西〇よりサー〇ルk

 もしかしたらそれが「その町にいる感覚」なのかもしれない。

 

例えば食べ物、名産品ももちろん試してみたい。

だけれどどちらかというと興味としては、スーパーで菓子パン、ジャンクフード、子供に人気の○○、cmでよく放送している○○…

私の味覚が雑だというのもあるけれど、皆が普段何を口にしているのか、この人たちに買ってもらえるように進化してきた味とはどんなものなのかを知りたい。

 

とにかく体験したい。

自分の興味のままに動きたい。

なので、立ち止まる、振り返る、話す、進む、迷うということを自分が感じるようにすることで自身の新たな興味に気づき、疲労を顧みずに足を動かし続ける。

なぜここまでの行動力を、実生活で発揮できないのかはわからない…

逆に、別世界にいるからこそストッパーを取り去ることが出来るのかもしれない。

 

写真に写るもの、時間感覚、移動距離とあらゆるものが二人の異なる人間を提示しているかのように見え、最近ではその境界を自覚するようになってからますます、はやくあの感覚に陥りたいと思うようになった。

一方で自分の両極端を知れば知るほど自分の選択に自信が持てなくなる。

「今の選択は、どちらの自分によるものか?」

この呼びかけひとつで途端にすべての選択肢を混沌の中へ陥らせる。

 

よってある種「あの自分」を旅行に期待しているのだろう。

どの自分が本当の自分か、というよくある答えのない問いに繋がるが、

本当にいったいどの自分が本当の自分なのだろう。

あの感覚を望むならば、少なくとも、堤防のない行動力や好奇心を併せ持つ性分に憧れているのは確かだ。しかしそれは本性なのか?一時出現するトラベラーズハイに過ぎないのではないか。

また「あの時の自分であればこれを選ぶ…」と、本当には望まない選択をし、疲れ果ててしまうのではないか。

これもまた実に消極的な議論である。

 

考えすぎてしまう、これもまた実生活中の特徴だ。

行動に先立つのが頭か体か、

どんな性格であるか、

どんなふうに笑うか、一歩目をどの方向に踏み出すのか。

 

答えは一向に出ない。

ただ自分をコントロールすることを覚えた。

 

 

 

ところで、本当の自分とは?このよく耳にする問い。

「すべてが自分だ」という言葉は的を射ていない。少なくとも私が期待する返事ではなく、そして何も解決せず発展もしない。

よってこの「すべてが」を言われた後、大抵の質問者が黙ってしまうのではないか。

何か違うがどう説明しなおせばいいのかわからない、という不完全燃焼感を抱えたまま。

 

 

「そりゃそうだ」

 

 

本当の自分、とは実は(あくまで私にとって)単に自分が最もストレスなく居られる状態を指す。

例えば、人によって声のトーンを使い分けてしまう癖があるとき「本当の自分の声がどれかわからない」と感じるだろう。それは、自分の声を無意識に変えている為筋肉負担がかかっている、何故だか体が疲れる、では疲れない声はいったいどうだったのか。

 

声は、地声というものがあり意識すればさほど難なく素の状態を見つけられるだろう。

だが思考パターンに関しては、あまりにも自分のすべてに影響をするために違和感の元を発見しづらい。在るのは「何かおかしい」といった本当に漠然としたものだ。

簡単な疑問に見えて、誰にも答えは出せない。しかし何とかして自分を「こういう人間だ」と定義したいのだろう。行動の基準がほしいのだろう。

 

本当のじぶんがわからないと発言した際に、その場にいた9割が「言っている意味が分からない」という反応を示すということを経験した。そして出たのが例の「すべてが」である。

…可能性として、「自分の知らない自分がいるはずだ」と受け取られたのではないか?

スピリチュアルな話だ。

私は「何の気づかいやプレッシャーもなく、もっとも自然体な自分が、既出のどの性格、性質、思考なのだかわからない」とあくまで自身の感覚を報告した。と、今考えると思う。

 

考えずとも生きていけるし、こんな事に時間を割きたくはない。

しかしそれが仕事や勉学にかかわってストレスを与えてきたとき、自動的にループにはまる。

 

いまだ自分がわかってはいない。しかしじぶんがいつ、どの状況で幸せ、楽しいといった内発的なエネルギーを感じたのかというのも要素としている。

一人でいるとき。感情の変化はさほどない。それはそれで、自然な自分かもしれない。

一方「一人でいる状況」が「一人になりたいから、友人の誘いを断った」結果ならばその交流の場を避けようとする自分はいったい何なのだ、と。

そんな自分の選択にすら疑問を持ってしまうほど、状況によって積極性であったり柔軟性に幅が出てしまう。

 

すべての言動や行動をこのようにして常に監視し、自信に判断を強いているのだ。

 

今読み直してもいかに自分の思考が疲弊に値するかを実感している。

 

旅行、もっといえば一人旅行は、反対側にいる自分になる時間なのだ。

 

 

そして思う、このように終わりのない問題に考えを巡らせている自分は本当の自分なのか?と。