〇写真を撮ることがすきだと思う幸せ

 

あの時の自分の写真を見ること、

好きですか?苦手ですか?絶対に見たくありませんか?

私は、「そもそも写真を撮ることに何の価値も見出せない」でした。

 

その私は今、日に何十枚写真を撮ることを前提にSDカードを吟味しています。

 

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小学校中学年くらいからでしょうか?

昔、私は

写真を撮ることの何が楽しいのか、なぜ私にカメラが向けられるのかわかりませんでした。

一応インスタントカメラを、年下の親戚の子に影響されて「ほしい」とねだったりもしましたが、結局対して印刷するでもなく。カメラやフィルムが今どこにあるのでしょうか。そもそも一体何を撮ったのか全く覚えていないのです。

 

中学校の卒業式か何かの節目に写真を撮ってくれた女の子がいて、直後「いい笑顔!」と言ってくれたのですがその時私は、こんなひきつった笑顔しか写れなくて、期待に応えられなくて申し訳ないなという思いがほんの一瞬で頭を巡りました。

また同級生と写真を撮る時、ぼさっとしたまま、姿勢もままならないまま、

苦痛でしかないといいたげな苦笑いを浮かべ力弱いピースと花束に挟まれた私が居ました。あの時の感情は覚えています。

 

高校の入学式、合格発表、何故こうも覇気がないのだと疑問がわくほどでした。

卒業式、クラスメイト一人一人の写真を載せる為にとってくれた写真、一人一人に設定があったのですがそれをあてはめられたとき「何も特徴が無いからその役割を当てられたのだ」と。

 

ネガティブ極まりありませんが、恐らくそれは態度にもにじみ出ていたので

今後友人に打ち明けても「そうだったんだ」とあまり驚かれない気がします。

 

よって小中高校生までの写真は、私にとって黒歴史の羅列のようなもので、

見るに堪えないものでした。

 

 

変化を見せたのは大学生のあたりからでしょうか。

 

 

 

 

ー写真を撮ることの意味は何なのでしょうか?

自分の成長記録?日記?

私にとっては、自分がその瞬間どんな感情を持っていたのかを

記録するものです。

ここ何年かで解りました。

 

携帯電話で気軽に写真が撮れるようになって、カメラよりも日常的に、保存されている写真を見ることが多くなりますよね。

この時の心の動き、情動が圧倒的に以前と異なることを発見したのです。

 

「本当にたのしかった」「生き生きしていた」「嬉しかった」「しんみりしていた」

 

等、自分がどんな感情を持っていたのか再確認できる場であり、とても強く影響されることが分かりました。ただの風景写真でも同じです。これを撮っているとき、周囲でこんなことが起きていた。誰かはこう言った。それに対し自分はこう答えたということがかなり鮮明に思い出されます。逆にそれほど感情が動かされないものにかんしては未練はありません。

もっとも「写真」が持つ効果として一般的ですが、それまでなにも無かったところには大きな革新でした。

 

このような価値観を持ち、

以前の写真(を見返すのが)嫌いは、根本的に自身の写る姿勢が好きではなかったといえます。それが自分の顔が嫌いという事に繋がっていた。

消極的で、はっきりと感情を出さず半端な顔をしているとき、その胸中で渦巻く不満が一体なんであったか、以外にも強く思い出されるのです。

写真を見返すたびに過去の鬱屈を見るのですから、写真嫌いも当然です。

 

明言すると、自分が全力で笑っている写真は嫌いではありません。

むしろたまに見ます。

何か吐き出せない感情を抱えていた日の写真を見るのはつらく、割にすぐ消してしまいます。

 

ですからわたしは人と写真を撮るときはなるべく楽しんでいる顔で写るようにしています。

風景写真には、自分の趣向を載せるように。

 

 

それが撮ってくれた人への感謝に、そしてのちの自分の活力になるためです。

自分を肯定するためです。

 

写真に写る自分が嫌いだという人がいたら、自分が理想通りに写るか?

あぁまたこんなひどい顔で…とかんじるほど自分に対し向き合ってしまうのならば、

その自分との対話に「自分が幸せであった」記録はプラスになり得ませんか?

 

写真を撮っているときからのちを想像し落ち込まず、

その時を楽しむ、あなたを記録してください。

 

実際に写真を見返した時一緒に写る子の美醜は気になりません。

私には彼らがどんな感情を持っていたのかのほうがよっぽど気になります。

 

 

 

〇怒られたくない、丸山桂里奈さんのしくじり

 

しくじり先生」という番組を、面白くてよく観ます。

沢山の人生を見ることが出来て面白いです。

今回、元なでしこジャパンの選手だった丸山桂里奈さんが先生として登場しました。

何故怒られやすい人が生まれるのか?

 

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「怒られやすい人間にならないための授業」とのことで、

 

序盤は「なんでこんな行動をする?!」と驚きつつでした。

 

しかし、

①一人で判断してしまう

②怒られているときに笑ってしまう

③周りが見えなくなる

④周囲にそそのかされて場違いな行動をとる

⑤怒られないように生きてきた

 

という部分から、責めるようなものでもない話ではないかと感じました。

 

もっとも根幹の⑤の要素から、

①自分に望まれているであろう事を常に考え、自分のあるべき姿を自分に課し「自分は今これをすべきだ」と自己完結する(人に相談できない、習慣がない)

②自分が怒られているという状況がありえないことだとストレスやギャップに耐え兼ね現実逃避をしてしまう

③ ①と同様

④「人の期待には応えなければならない」という義務感が第一にある

 

という状態が出来ているのではないでしょうか。

 

本当に自由人で破天荒で予測不能な性質の人物であれば

「これが自分のスタイルだ」と、

いくらおこられようが世間で問題になろうが

最低限の「迷惑を掛けたこと」に対する言及はあっても、

自分が怒られることをここまで真剣に問題視せず、むしろ「怒られる場面をうまく切り抜ける方法」とか「自分のスタイルを持ち続ける方法」等々をテーマにするでしょう。

 

またたびたび彼女が「周りがそそのかしたから」「ファンが希望したから」

と言うのも一見子供みたいな言い訳に聞こえるが

それはもっとも彼女が最重要視してきた価値観を表しているとしたら

これらの行動が自然なものに思えます。

 

 

悪気はないし、何故おこられているのかわからない

これはいかに、今までに自分の力や感覚だけを頼りに処世をしてきたのかということを示すのかもしれません。

 

冷静さを持つように意識するのもとても重要だと思いますが、

加えて「自分の決断がすべてではない」「怒られることは大したことではない、むしろ成長への糧だ」と本当に、感覚的に、思考の奥に沁みこませることができたなら

より楽になれるのではないかと思います。

 

「こうした方がいいと思った」「人に言われたから」に見えるように

彼女の言動から「自分の意思」をあまりくみ取れずこのように考えるに至りました。

あくまでも予測でしかありません。

 

 

実は私も似たような部分があり、怒られること=失望されるというような図式を持っていて、他人と協力し最善策を出すことがとても下手です。

するべきだと思うこと、期待されることを考えるのに意識を集中させるあまり、客観的に見て暴走ととらえられるような行動をし、咎められるという結果的に最も望んでいなかた状況に自分を導いてしまうのです。

 

「一人で仕事を抱え込む」

「相談をしない」

というのは業務上とても迷惑を掛けます。

そしてこれらを習慣として小さなころから行ってきた人にとっては、なぜこんなことが出来ないのか理解できない。意識が足りない。

もしかしたら、あえて相談しないことを選び何のメリットがあるのか不思議なほど自然な行為なのかもしれません。

 

とても厄介な気質を持ってしまったのは、本人が一番身を持って体験していると思います。ですがなぜか出来ない。

十分に悪影響が叫ばれているのに本人では断ちようのないたばこやお酒のような…

 

また問題に集中しすぎてしまいました。

 

ひとまず、冷静に。

 

 

〇運か努力か

「オイコノミア」というNHK番組で

運か、努力どちらが作用するのかというテーマを扱っていました。

 

努力か才能かという対比はよく上がります。

 

…そもそも、運とは?

 

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運がよかっただけだよ!   という謙遜

運がよかったからだ     という僻み。

 

運とは測り用が無いものです。

 

何故運という、どのようにしても目に見ることができないものについて

何かを委ねたり、帰化させたりしようとするのでしょう。

「運」だと結論付けたところで、どのようなメリットが生まれるのでしょうか?

 

番組の中で、

結果を「運」だととらえるほど利他的になり得る

とあり、視点に感心しました。

 

 

生の中に「運」を取り入れるのは人間だけです。

運という物について一種、信仰や神格化が行われているのかもしれません。

他の生物には生き残るという結果しか存在せず、

人間社会の複雑で生物の本能を超越した仕組みがあるからこそそこに

「運」の要素が生まれたのでしょうか。

 

 

今回のテーマについてわたしも常々思うことがあります。

そんなことを言ったら、すべてのものは運に依っているのではないかと。

 

努力を出来る環境に生まれたこと、努力をするという思考を持てたことが運である。

こう考え、こう在り、こう動き、こう語ろうと考えることが出来る

そのような状況は、一体何が作りだしているのでしょう。

 

一種ニヒリズム的な部分もありますが、

全てが運なのだからと悲観するのではなく、

むしろもっと、「運」とは意識をし大切にするべきものだとおもうのです。

 

例えば「自分がこのような機会を得るなど勿体ない」

という罪悪感や、

「自分がこのようなことをして周囲にどう思われるか」

という不安が出来たときに、

私にはこのような運が与えられたのだから、そのままで良いのだ。

と少し客観的に考えることが出来たら。

 

すると、この得られたものを周囲に還元しようと思え

自分の状況に対し、感謝の目を向けることができるのではないでしょうか。

 

運に 罪悪感、劣等感、驕り、諦め などを結び付けず

 

自身を見つめなおす為に、大切に持ち続けるべき概念だと感じます。

 

以上です。

 

 

○一人旅に見るもうひとりの自分とは

 

以前一人旅について書きました。

何が好きか、どういう気構えかなど、長々書いてしまい、収拾がつかなくなってしまいましたが^_^;

 

今日は、一人旅をしているときこんな感覚があるということを

将来の自分にのこす為にも、書いてみます。

 

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極端に言えば

一人旅において、一番自分にとって価値があるのは「自身の変化」を強く見せつけられる点です。

 

旅の中で私は、一言でいえば常に「目の前で起きることすべてに価値がある」と感じています。

 

対して日々の私は、極端に人の目を気にし

「あなたにこれをする資格はない」

「思った通り、失敗した」

「誰も味方につかないよ」

と文字にすれば驚くほどのマイナス思考を持ちます。

 

そして何より、時間が過ぎていることを何とも思わないのです。

経験、発見、探究という行為に対する意欲を失ってしまうのです。

 

 

 

勿体ないという感覚

自信

衝動

利己的思考

好奇心

すべて目の前に起きることを受け入れようとする覚悟

体力

 

などといったものが突然空から降ったように私の中に生まれ、

まるでなにかの監視から抜けたように

自然と次の目的地を探し始めるのです。

 

本当に不思議な変化です。

なぜ今日ここに書いたかといえば、旅中の感覚を再認識したかったからです。

 

実はいまでこそこうも感じられるようになった私も、

それまでは消極的で控えめだといつも多方面の先生方に心配されるこどもでした。

だから逆に、一人になる場へ放り込まれなければならなかったのでしょう。

誰かが見つけてくれる場所から、気を抜けば忘れられてしまい兼ねない場所へ。

 

その結果私は、自分の存在や感覚を認知すべく

行動するという選択に至りました。

努力などはなく、自然に。

ですから私の一人旅は計画性が低く、好きな場所を見つけたから明日も来ようと、

「明日行く場所は今日次第」というような形がよいようです。

 

旅は私にとって「生存確認」です。

 

もっとも自分に縁がないと思っていた場所で

自分の可能性を信じることができた

 

という話でした。

 

○怒られないいい子=劣っている??(主観)

 

今日は「怒られる」ことについて。

私自身の感覚を織り交ぜて描いていきます。

 

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最近の若者は怒られるとすぐに逃げ出す、とはよく聞くものです。

私もまだ「若者」の側で、実際怒られることに対しては本当に耐性がありません。

なんでここで??と自分でも思う場面で、

涙が出ることがあります。

 

ところで怒られることに弱い理由としてもっとも大々的なものは、

 

「怒られ慣れていない」から。

親や先生に甘やかされてきた。

 

この場合、文面上本人以外に責任転嫁されているように見えますが、

現実に「耐性」の欠如を叱責されるのは若者自身でしょう。

「これだから最近の若い奴は」ですね。

 

話がそれました。

 

私は、怒られた経験云々よりも

「怒られたとき、その言葉を冷静に判断出来るかどうか」

つまり、

「こいつ何言ってんだ」力が大切なのではないでしょうか。

 

相手から何を言われても、自分の(健全な)価値観を通し

言葉を吸収することができるかどうか。

 

その反対は「相手の言葉をすべて鵜呑みにしてしまう」です。

すべてが正しいと思ってしまう。

そのため、理不尽な叱責も受け入れ、正当な指摘であってもまるで

「ダメなやつ」だと人格否定されたように感じてしまうのです。

 

この感覚は、わかる人には本当にわかり(無意識下かもしれませんが)

他方にはまったく理解できない感覚だと思います。

 

注意されただけで、人格否定?被害妄想激しすぎない?面倒臭いなあ。

そう思うでしょう。

何故、そのような思考になる・・・?

 

 

 

わたしは若者全体に「いい子気質」が漂い、大いに関係しているのではないかと感じます。

自尊心や自己信頼感の構築に関して。

 

学校では目立った問題もなく、行事には積極的に励み、協力し、歯向かわず、必ず玄関から登校し、修学旅行も何事もなく、、、そして本当にやさしい。

深夜コンビニ前でたむろしている様子は見かけなくなりました。

少なくとも私の周囲ではこのような感じです。

これは私の親世代と比べてどうなのでしょう。

 

いうことを聞く。問題を起こさない。仲がいいことが一番。

家庭に関してはそれぞれなので何とも言えませんが、

学校という場では確実に生徒の鎮静化が起こってきたと感じます。

 

上記を見て、どのような人間像を思い浮かべますか?

弱い人間、甘い人間、怠惰的人間、、このような言葉は適切でしょうか。

 

むしろ大した反抗をせず枠にはまり、怒られないよう、手こずらせないように過ごしてきた世代

代わりに「自主性」「自尊心」「自我」そういったものを強く得ずに

波風立てずいい子に、KYにならないように気を遣ってきた。

まずその健闘を称えるべきではないかとさえ感じます。

 

怒られて泣くとき、私の場合

・怖い人がいるよう

・ムカつくよう

・泣くから許して

ではなく

・自分に対する失望

・不出来の再認識

・悔しさ

・見限られる絶望

のようなものが渦まき、自然と泣いてしまいます。

 

今から私たちに出来ることは、自分の決定に責任を持つこと、冷静に判断すること、すべて受け入れるよう意識すること。自我を確立する(方法はわかりません)。

そして

怒っている相手に対しイライラしてしまう場合、

普段のモチベーションがどうかを考えれば、その涙がどういうものかわかるでしょう。

 

さらには

「部下なりにどのようなことをやりがいとして働いているのか」

の部分をしっかりと聞いてみる上司になりたい、と思います。

 

涙がでてしまう=悔しい=自分なりに努力した部分があった

ということです。

 

 

 

 

これらはすべての場面で当てはまるわけではありません。

 

最近の素直で泣きやすい若者は「やりがい」を大切にする傾向が強いそうです。

うまく育てばきっと貢献します。

役に立つ存在になりたいと誰よりも強く願う層なのではないでしょうか。

 

参考になればと思います。

 

 

〇3日間のファストパス フィレンツェカード in2017年 夏

 

フィレンツェに行くと、美術館や教会など毎回きちんとお金がかかる。

そして何より列、列、列、、、

 

日本でも美術館で、大きな展覧会に入るときは1000円ほどかかりますが、ロンドンではそれを国か市かそれとも団体であったか、とにかく公的機関が支えているようで、

出入り自由、募金箱が置かれ入場者の心持ちによって寄付がなされるという形式に大変驚きました。

もちろんほかの都市でも毎月入場無料の日が定められていたり、美術・芸術というものが民間に積極的に開かれたものであるということに感動します。

 

話がそれましたが、フィレンツェのおおきなといえばウフィッツィ美術館、アカデミア美術館、パラティーノ美術館が大きなところ。そして洗礼堂、ドゥオモ、礼拝堂、数えきれないほどの教会…

ふらっとフィレンツェの空気に触れるならまだしも、これを見たい!とたくさんのリストを作って足を運んだ人々にはそれはそれは酷な「行列」が待ち構えています。

特に夏場。繁忙期。2.3時間待つだの、それをこの炎天下の中、または雨の中(実際急に珍しく雨が降り、それまでの長い列もいったん散り散りになったことがあり、のち元通りになっていましたが一体どのように列を作り直したのでしょうか?)並び続けるというのは、目の当たりにすると、急激に戦気が萎えます。

ディズニーランドのそれを思い浮かべていただけるとわかりやすいでしょう。只アトラクションの場合これからは乗るだけ、友達ともウキウキ!が、この列の後鑑賞のためにまた何時間もそこにとどまり、頭を回転させ続けなければならないと。ひとつ二つなら耐えられますが幾つも予定している方にとっては相当時間の無駄遣いだと思えるに違いありません。

 

そこでほんとうに、ほんとうにおすすめするのが「フィレンツェカード」。

じつは旅行に行く前、購入したガイドブックを見ても全く言及がなかった為最初はすべて完璧なスケジュールの元、予約しようとしていました。

しかしこの作業、たいへん疲れます。どれほど時間をかけてみたいかその場に行かないと分からないものを「時間厳守」を前提に計画を立てるストレスといったらありません。

 

 

フィレンツェカードとは、以下の通り

(最初にカードを利用してから)72時間、72€で、72施設、列に並ばず

はいれるというとても有用なカードでした。

※カード・チケット保持者の列には並びます

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※以前は、WIFI無料やバス乗り放題などのサービスがありましたが、現在は該当施設増加とともにそれらは廃止されました。

 

ちなみに72か所3日間分の時間で回るのは相当難しいですし、何よりどこも、特に教会などは13時や17時に閉まるなど全体的に開館時間が短い印象を受けました。

よって割はよくないと思います。

72ユーロ、、、たったの3日間、数か所の観光のために、、、と思うかもしれません。

しかし、まさに時間をお金で買うとはこれだと思えるほどの効力を発揮しました。

日本円に換算して、1万数千円ほど。(2017年8月現在)施設観光をメインとするならば、多少ホテルのグレードや飛行機の便を変えても

確実に持つべきフリーパスです。

 

たとえばウフィッツイ美術館にて。予約を全くせずに向かった私達は、ひどく綿密な計画をたてていたものの都合により午後2時という灼熱まっただ中に美術館前にたどり着きました。すぐ近くのシニョリーア広場の時点で目の前に人しか見えない状態だったのですが、美術館前ともなると日中の原宿です。竹下通り。

そこに列を作ろうと、なぜかドア左右1列ずつチケット購入の列があり、すでにカードを持っていたので係りに並ぶべき場所を聞くと、もう一つ間にある列を示されました。その列も50メートルほど。本当にここかと疑いました。

また別の日の朝に来ようと少し離れ、昼食場所を探そうとうろうろしていたところ、まさかの先ほどの列がごっそりなくなり、たったの5組くらいに。

これはいくしかないと、列にならび結果、20分程待ち入ることができました。

 

やはりそれまでの厳重な入場制限もあり、

館内は非常に適度な人数を保っていて「有名作品が人だかりで見られない」といったことは全くありませんでした。この点はかなりありがたいです。

日本(特に東京)で美術館に行けば、館内にはすぐにはいれるものの、壁に沿った人の流れに乗らなければならず気になった作品はその列を抜けて遠くから眺めるような、そんな状態で後にする頃にはどっと疲れていました。

作品も近くで見られ、自分のペースで鑑賞できたのはとても大きなメリットでした。

 

こうして、アカデミア美術館も昼入場で10分ほど、サンロレンツォ教会にはやはり30メートルほどの購入列を飛ばし1分で入場。ジョットの鐘楼にも1分。等々

非常に利用してよかった制度だといえます。

よってこのカードは、パケット放題のような料金に関してよりも、時間を買うよな感覚です。

もちろん1日に一つのペースで回るようであれば列も気にならないかもしれませんが、とにかく箇所が多いという方、絶対にまずストレスが減りますしぜひともおすすめです。

 

 

ーー購入ーー

http://www.firenzecard.it/?lang=en

↑こちらのオフィシャルサイトからフィレンツェカードをあらかじめ購入し現地で引き換えるか、

または現地で購入(観光案内所やドゥオモ付近、ヴぇッキオ宮殿等)するかできます。

購入場所と引き換えできる場所は違いますし(サイト内リスト有)、特に前もって購入するメリットもわからず、現地購入しました。夜遅く24時まで開いているヴェッキオ宮殿の売り場は、夜に到着した方にもいいかと思います。

※どこかのサイトに「ネット購入でホルダーがもらえる」とありましたが、現地購入でももらえます。基本全員配布のようで、皆首から下げっぱなしでした。

 

主にカードと、フィレンツェの地図。すべての道の名前が載った地図、主な建物の開館時間、テーマごとのモデルルートなどが書かれていて、これは事前にほしかったとおもいました。

 

以上、フィレンツェをしっかり見て回るときにお勧めを。

お役に立てればうれしいです。

 

〇旅行記あるいはエッセイについて -鹿島茂「パリの秘密」

 

ブックオフをはじめ古本屋に出かけたとき、

在れば必ず、旅行に関するコーナーへ向かう。

旅行会社のガイドブック、店をまとめたもの、限定した交通機関でいかに楽しむかというもの、都市からの日帰り旅行等々…どれも見ているだけでその土地への興味をそそられる。いったいどれほどの時間を掛け、一冊が作られているのだろう。

 

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その中でも私がもっとも時間を掛けて読みたいのが

エッセイ?というか留学体験記だったり旅行記だったりの「自分の体験」ものだ。

文庫本で出版されていることが多い。

よく見る国はイタリア、フランス。

先ほどのおすすめ系はイギリス、ハワイや台湾、韓国、最近は北欧も増えたようだが。

 

 

何故エッセイ・旅行記が好きかというと、

実体験が含まれているから、である。

 

ガイドブックなどは、作者によって提示されるがままに「もの」を見ていく。

旅行記はそれは「感情」になる。こう感じた、行動した、そして見た景色がどうだった。ノンフィクションの小説だ。

よって前者は情報量が多く、それぞれにあまりつながりはなく商品を見せられているようで、

後者はゆっくりとした時間の流れを、私の想像力と織り交ぜることで全く異なる時代を生き、知りえない人間を知ることが出来る。

 

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話は逸れるが、ガイドブックは旅行後に価値を持ち始める。

もともとガイドブックという物が好きで旅行に行く前は必ず紙の地図や本を用意するが(携帯では電池切れが怖い)、

用が済んだらあちらで捨てて来ようとしたところ、ページごとに思い出がまさに付箋のように付加されていて、すべてを持ち帰らざるを得なかった。

又その量がガイドブックらしくあまりにも多い為いっぱいいっぱいになってしまい、しばしば疲れているときにガイドブックを読むのは良くない。

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推理小説がエンタテインメントと評されるごとく、わたしにとっては旅行記こそ今でいうVRのような、目の前に非現実を映し出す道具なのだ。

 

そしてまた、中でも、今までで最も読んでいる時に心地よいと感じた作品が

 

鹿島茂 著『パリの秘密』(中公文庫)

 

 

パリの秘密 (中公文庫)

パリの秘密 (中公文庫)

 

 

 

 

この作品は上記の①②両方を併せ持つので、全くパリを知るのが初めてでも読み進められる。

 

特徴としては、

まず紹介の仕方が”観光客向け的”でない。

表層のきらびやかさからさらに奥へ入り組んだ部分を描きその背景歴史的背景にも触れることで、読者が体験する空間が何倍にも広がる。

 

次に著者の好き嫌いの感情が、柔らかい。

よく見られる「自分はここでこうするのが好きだ」とか「こうせずにはいられない」とか、共感できる部分は良いが、それがあまりにも連続すると少し強制的な感覚を覚えることがある。想像の世界に著者が歩いている風景が作られてしまう。また内輪の話、のようにも思うことがある。

本書の場合、著者が目にしているものを客観的に説明すると同時に著者の感性があって、好きという感情が絵具となり景色が鮮やかになっていく、そんなイメージを抱いた。

 

 

一度図書館で借りて、一度読んだだけで終わってしまい読み込めていない部分ばかりだ。

しかし内容とは別に文体が雲の上で寝ているような流れであったことは、感覚として覚えている。

 

ページ数も多くなく、テーマがとても細かく分かれているのでとても気軽に読めるだろう。

もしこのような本が別の国をテーマにしてあれば、自分は恐らく、もっと知りたいと思い、画像を検索するかガイドブックを見に行くかの行動に出ている。

 

鹿島茂さんはかなりの数出版をしていて本屋でも数冊しか扱われていないが、地道にほかの著書にも触れてゆけたら、うれしい。