○一人旅に見るもうひとりの自分とは

 

以前一人旅について書きました。

何が好きか、どういう気構えかなど、長々書いてしまい、収拾がつかなくなってしまいましたが^_^;

 

今日は、一人旅をしているときこんな感覚があるということを

将来の自分にのこす為にも、書いてみます。

 

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極端に言えば

一人旅において、一番自分にとって価値があるのは「自身の変化」を強く見せつけられる点です。

 

旅の中で私は、一言でいえば常に「目の前で起きることすべてに価値がある」と感じています。

 

対して日々の私は、極端に人の目を気にし

「あなたにこれをする資格はない」

「思った通り、失敗した」

「誰も味方につかないよ」

と文字にすれば驚くほどのマイナス思考を持ちます。

 

そして何より、時間が過ぎていることを何とも思わないのです。

経験、発見、探究という行為に対する意欲を失ってしまうのです。

 

 

 

勿体ないという感覚

自信

衝動

利己的思考

好奇心

すべて目の前に起きることを受け入れようとする覚悟

体力

 

などといったものが突然空から降ったように私の中に生まれ、

まるでなにかの監視から抜けたように

自然と次の目的地を探し始めるのです。

 

本当に不思議な変化です。

なぜ今日ここに書いたかといえば、旅中の感覚を再認識したかったからです。

 

実はいまでこそこうも感じられるようになった私も、

それまでは消極的で控えめだといつも多方面の先生方に心配されるこどもでした。

だから逆に、一人になる場へ放り込まれなければならなかったのでしょう。

誰かが見つけてくれる場所から、気を抜けば忘れられてしまい兼ねない場所へ。

 

その結果私は、自分の存在や感覚を認知すべく

行動するという選択に至りました。

努力などはなく、自然に。

ですから私の一人旅は計画性が低く、好きな場所を見つけたから明日も来ようと、

「明日行く場所は今日次第」というような形がよいようです。

 

旅は私にとって「生存確認」です。

 

もっとも自分に縁がないと思っていた場所で

自分の可能性を信じることができた

 

という話でした。

 

○怒られないいい子=劣っている??(主観)

 

今日は「怒られる」ことについて。

私自身の感覚を織り交ぜて描いていきます。

 

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最近の若者は怒られるとすぐに逃げ出す、とはよく聞くものです。

私もまだ「若者」の側で、実際怒られることに対しては本当に耐性がありません。

なんでここで??と自分でも思う場面で、

涙が出ることがあります。

 

ところで怒られることに弱い理由としてもっとも大々的なものは、

 

「怒られ慣れていない」から。

親や先生に甘やかされてきた。

 

この場合、文面上本人以外に責任転嫁されているように見えますが、

現実に「耐性」の欠如を叱責されるのは若者自身でしょう。

「これだから最近の若い奴は」ですね。

 

話がそれました。

 

私は、怒られた経験云々よりも

「怒られたとき、その言葉を冷静に判断出来るかどうか」

つまり、

「こいつ何言ってんだ」力が大切なのではないでしょうか。

 

相手から何を言われても、自分の(健全な)価値観を通し

言葉を吸収することができるかどうか。

 

その反対は「相手の言葉をすべて鵜呑みにしてしまう」です。

すべてが正しいと思ってしまう。

そのため、理不尽な叱責も受け入れ、正当な指摘であってもまるで

「ダメなやつ」だと人格否定されたように感じてしまうのです。

 

この感覚は、わかる人には本当にわかり(無意識下かもしれませんが)

他方にはまったく理解できない感覚だと思います。

 

注意されただけで、人格否定?被害妄想激しすぎない?面倒臭いなあ。

そう思うでしょう。

何故、そのような思考になる・・・?

 

 

 

わたしは若者全体に「いい子気質」が漂い、大いに関係しているのではないかと感じます。

自尊心や自己信頼感の構築に関して。

 

学校では目立った問題もなく、行事には積極的に励み、協力し、歯向かわず、必ず玄関から登校し、修学旅行も何事もなく、、、そして本当にやさしい。

深夜コンビニ前でたむろしている様子は見かけなくなりました。

少なくとも私の周囲ではこのような感じです。

これは私の親世代と比べてどうなのでしょう。

 

いうことを聞く。問題を起こさない。仲がいいことが一番。

家庭に関してはそれぞれなので何とも言えませんが、

学校という場では確実に生徒の鎮静化が起こってきたと感じます。

 

上記を見て、どのような人間像を思い浮かべますか?

弱い人間、甘い人間、怠惰的人間、、このような言葉は適切でしょうか。

 

むしろ大した反抗をせず枠にはまり、怒られないよう、手こずらせないように過ごしてきた世代

代わりに「自主性」「自尊心」「自我」そういったものを強く得ずに

波風立てずいい子に、KYにならないように気を遣ってきた。

まずその健闘を称えるべきではないかとさえ感じます。

 

怒られて泣くとき、私の場合

・怖い人がいるよう

・ムカつくよう

・泣くから許して

ではなく

・自分に対する失望

・不出来の再認識

・悔しさ

・見限られる絶望

のようなものが渦まき、自然と泣いてしまいます。

 

今から私たちに出来ることは、自分の決定に責任を持つこと、冷静に判断すること、すべて受け入れるよう意識すること。自我を確立する(方法はわかりません)。

そして

怒っている相手に対しイライラしてしまう場合、

普段のモチベーションがどうかを考えれば、その涙がどういうものかわかるでしょう。

 

さらには

「部下なりにどのようなことをやりがいとして働いているのか」

の部分をしっかりと聞いてみる上司になりたい、と思います。

 

涙がでてしまう=悔しい=自分なりに努力した部分があった

ということです。

 

 

 

 

これらはすべての場面で当てはまるわけではありません。

 

最近の素直で泣きやすい若者は「やりがい」を大切にする傾向が強いそうです。

うまく育てばきっと貢献します。

役に立つ存在になりたいと誰よりも強く願う層なのではないでしょうか。

 

参考になればと思います。

 

 

〇3日間のファストパス フィレンツェカード in2017年 夏

 

フィレンツェに行くと、美術館や教会など毎回きちんとお金がかかる。

そして何より列、列、列、、、

 

日本でも美術館で、大きな展覧会に入るときは1000円ほどかかりますが、ロンドンではそれを国か市かそれとも団体であったか、とにかく公的機関が支えているようで、

出入り自由、募金箱が置かれ入場者の心持ちによって寄付がなされるという形式に大変驚きました。

もちろんほかの都市でも毎月入場無料の日が定められていたり、美術・芸術というものが民間に積極的に開かれたものであるということに感動します。

 

話がそれましたが、フィレンツェのおおきなといえばウフィッツィ美術館、アカデミア美術館、パラティーノ美術館が大きなところ。そして洗礼堂、ドゥオモ、礼拝堂、数えきれないほどの教会…

ふらっとフィレンツェの空気に触れるならまだしも、これを見たい!とたくさんのリストを作って足を運んだ人々にはそれはそれは酷な「行列」が待ち構えています。

特に夏場。繁忙期。2.3時間待つだの、それをこの炎天下の中、または雨の中(実際急に珍しく雨が降り、それまでの長い列もいったん散り散りになったことがあり、のち元通りになっていましたが一体どのように列を作り直したのでしょうか?)並び続けるというのは、目の当たりにすると、急激に戦気が萎えます。

ディズニーランドのそれを思い浮かべていただけるとわかりやすいでしょう。只アトラクションの場合これからは乗るだけ、友達ともウキウキ!が、この列の後鑑賞のためにまた何時間もそこにとどまり、頭を回転させ続けなければならないと。ひとつ二つなら耐えられますが幾つも予定している方にとっては相当時間の無駄遣いだと思えるに違いありません。

 

そこでほんとうに、ほんとうにおすすめするのが「フィレンツェカード」。

じつは旅行に行く前、購入したガイドブックを見ても全く言及がなかった為最初はすべて完璧なスケジュールの元、予約しようとしていました。

しかしこの作業、たいへん疲れます。どれほど時間をかけてみたいかその場に行かないと分からないものを「時間厳守」を前提に計画を立てるストレスといったらありません。

 

 

フィレンツェカードとは、以下の通り

(最初にカードを利用してから)72時間、72€で、72施設、列に並ばず

はいれるというとても有用なカードでした。

※カード・チケット保持者の列には並びます

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※以前は、WIFI無料やバス乗り放題などのサービスがありましたが、現在は該当施設増加とともにそれらは廃止されました。

 

ちなみに72か所3日間分の時間で回るのは相当難しいですし、何よりどこも、特に教会などは13時や17時に閉まるなど全体的に開館時間が短い印象を受けました。

よって割はよくないと思います。

72ユーロ、、、たったの3日間、数か所の観光のために、、、と思うかもしれません。

しかし、まさに時間をお金で買うとはこれだと思えるほどの効力を発揮しました。

日本円に換算して、1万数千円ほど。(2017年8月現在)施設観光をメインとするならば、多少ホテルのグレードや飛行機の便を変えても

確実に持つべきフリーパスです。

 

たとえばウフィッツイ美術館にて。予約を全くせずに向かった私達は、ひどく綿密な計画をたてていたものの都合により午後2時という灼熱まっただ中に美術館前にたどり着きました。すぐ近くのシニョリーア広場の時点で目の前に人しか見えない状態だったのですが、美術館前ともなると日中の原宿です。竹下通り。

そこに列を作ろうと、なぜかドア左右1列ずつチケット購入の列があり、すでにカードを持っていたので係りに並ぶべき場所を聞くと、もう一つ間にある列を示されました。その列も50メートルほど。本当にここかと疑いました。

また別の日の朝に来ようと少し離れ、昼食場所を探そうとうろうろしていたところ、まさかの先ほどの列がごっそりなくなり、たったの5組くらいに。

これはいくしかないと、列にならび結果、20分程待ち入ることができました。

 

やはりそれまでの厳重な入場制限もあり、

館内は非常に適度な人数を保っていて「有名作品が人だかりで見られない」といったことは全くありませんでした。この点はかなりありがたいです。

日本(特に東京)で美術館に行けば、館内にはすぐにはいれるものの、壁に沿った人の流れに乗らなければならず気になった作品はその列を抜けて遠くから眺めるような、そんな状態で後にする頃にはどっと疲れていました。

作品も近くで見られ、自分のペースで鑑賞できたのはとても大きなメリットでした。

 

こうして、アカデミア美術館も昼入場で10分ほど、サンロレンツォ教会にはやはり30メートルほどの購入列を飛ばし1分で入場。ジョットの鐘楼にも1分。等々

非常に利用してよかった制度だといえます。

よってこのカードは、パケット放題のような料金に関してよりも、時間を買うよな感覚です。

もちろん1日に一つのペースで回るようであれば列も気にならないかもしれませんが、とにかく箇所が多いという方、絶対にまずストレスが減りますしぜひともおすすめです。

 

 

ーー購入ーー

http://www.firenzecard.it/?lang=en

↑こちらのオフィシャルサイトからフィレンツェカードをあらかじめ購入し現地で引き換えるか、

または現地で購入(観光案内所やドゥオモ付近、ヴぇッキオ宮殿等)するかできます。

購入場所と引き換えできる場所は違いますし(サイト内リスト有)、特に前もって購入するメリットもわからず、現地購入しました。夜遅く24時まで開いているヴェッキオ宮殿の売り場は、夜に到着した方にもいいかと思います。

※どこかのサイトに「ネット購入でホルダーがもらえる」とありましたが、現地購入でももらえます。基本全員配布のようで、皆首から下げっぱなしでした。

 

主にカードと、フィレンツェの地図。すべての道の名前が載った地図、主な建物の開館時間、テーマごとのモデルルートなどが書かれていて、これは事前にほしかったとおもいました。

 

以上、フィレンツェをしっかり見て回るときにお勧めを。

お役に立てればうれしいです。

 

〇旅行記あるいはエッセイについて -鹿島茂「パリの秘密」

 

ブックオフをはじめ古本屋に出かけたとき、

在れば必ず、旅行に関するコーナーへ向かう。

旅行会社のガイドブック、店をまとめたもの、限定した交通機関でいかに楽しむかというもの、都市からの日帰り旅行等々…どれも見ているだけでその土地への興味をそそられる。いったいどれほどの時間を掛け、一冊が作られているのだろう。

 

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その中でも私がもっとも時間を掛けて読みたいのが

エッセイ?というか留学体験記だったり旅行記だったりの「自分の体験」ものだ。

文庫本で出版されていることが多い。

よく見る国はイタリア、フランス。

先ほどのおすすめ系はイギリス、ハワイや台湾、韓国、最近は北欧も増えたようだが。

 

 

何故エッセイ・旅行記が好きかというと、

実体験が含まれているから、である。

 

ガイドブックなどは、作者によって提示されるがままに「もの」を見ていく。

旅行記はそれは「感情」になる。こう感じた、行動した、そして見た景色がどうだった。ノンフィクションの小説だ。

よって前者は情報量が多く、それぞれにあまりつながりはなく商品を見せられているようで、

後者はゆっくりとした時間の流れを、私の想像力と織り交ぜることで全く異なる時代を生き、知りえない人間を知ることが出来る。

 

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話は逸れるが、ガイドブックは旅行後に価値を持ち始める。

もともとガイドブックという物が好きで旅行に行く前は必ず紙の地図や本を用意するが(携帯では電池切れが怖い)、

用が済んだらあちらで捨てて来ようとしたところ、ページごとに思い出がまさに付箋のように付加されていて、すべてを持ち帰らざるを得なかった。

又その量がガイドブックらしくあまりにも多い為いっぱいいっぱいになってしまい、しばしば疲れているときにガイドブックを読むのは良くない。

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推理小説がエンタテインメントと評されるごとく、わたしにとっては旅行記こそ今でいうVRのような、目の前に非現実を映し出す道具なのだ。

 

そしてまた、中でも、今までで最も読んでいる時に心地よいと感じた作品が

 

鹿島茂 著『パリの秘密』(中公文庫)

 

 

パリの秘密 (中公文庫)

パリの秘密 (中公文庫)

 

 

 

 

この作品は上記の①②両方を併せ持つので、全くパリを知るのが初めてでも読み進められる。

 

特徴としては、

まず紹介の仕方が”観光客向け的”でない。

表層のきらびやかさからさらに奥へ入り組んだ部分を描きその背景歴史的背景にも触れることで、読者が体験する空間が何倍にも広がる。

 

次に著者の好き嫌いの感情が、柔らかい。

よく見られる「自分はここでこうするのが好きだ」とか「こうせずにはいられない」とか、共感できる部分は良いが、それがあまりにも連続すると少し強制的な感覚を覚えることがある。想像の世界に著者が歩いている風景が作られてしまう。また内輪の話、のようにも思うことがある。

本書の場合、著者が目にしているものを客観的に説明すると同時に著者の感性があって、好きという感情が絵具となり景色が鮮やかになっていく、そんなイメージを抱いた。

 

 

一度図書館で借りて、一度読んだだけで終わってしまい読み込めていない部分ばかりだ。

しかし内容とは別に文体が雲の上で寝ているような流れであったことは、感覚として覚えている。

 

ページ数も多くなく、テーマがとても細かく分かれているのでとても気軽に読めるだろう。

もしこのような本が別の国をテーマにしてあれば、自分は恐らく、もっと知りたいと思い、画像を検索するかガイドブックを見に行くかの行動に出ている。

 

鹿島茂さんはかなりの数出版をしていて本屋でも数冊しか扱われていないが、地道にほかの著書にも触れてゆけたら、うれしい。

〇一人旅行と「本当の自分」について。

 

一人旅行を私は、とても好きです。

 

一人旅行と一言で言っても、目的や形態は様々。

また日数、宿泊所、食事等も様々、特に「一人旅」の方々はとてもそれらを愉しんでいる印象があります。

今日は、私がなぜ一人の旅行を好きなのかについて。

 

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私は一人旅とまで称せるものは一度もしたことがあらず、また今のところ世界中を旅したいというような衝動もありません。

ただ「一人で異国を探検している」という感覚自体が好きなようです。

ですから1か月以上の長期間であったり、何か国も移動したり

もちろんそのような体験は、出来ることならば一度はしておくべきものだとは思いますが

期間が重要なのではないようです。

 

では、なにが大切なのか。

それは少し大袈裟ですが、自分の存在を実感する、ということです。

 

〇私の旅行形態は、

1.宿・・ある程度の安全性を考慮し、価格重視。ドミトリー可。一度勢いで利用し、宿舎の選択肢が大幅に増えました。

→日本では宿泊といえば自身も「ホテル」「旅館」などきちんとしたものが浮かびますが、海外ではなぜか突然好奇心からドミトリーやお家を改造した…ホテル?など、いろいろ視野に入れて考えます。

 

2.食事・・朝食バイキングも好きだけれど一人の時はスーパーで購入し部屋で。レストランよりもご当地ジャンクフードが好きです。ハンバーガーやケバブも大歓迎です。

→ホテルでの食事は日本と変わらない気がしてしまい。スーパーのおもしろい味のもの、便利グッズ、ゲテモノを見ることが本当に好きというか至福と言い切ってもいいくらい好きです。パッケージの文字に、自分がどこにいるか認識させられ、色合いに国民性を感じ、文房具やキッチン用具から生活を想像し、、楽しみが尽きません。

 

3.移動手段・・場合によりけり。徒歩であれば迷うもよし、バスや電車は生活感が感じられて好き。夜行バスで一夜越すのも楽しかったです。

→元から歩くことが好きなのではありません。旅行先ではスイッチが変わったように歩き始めます。迷って3時間ぶっ通しの後も全く自責感が湧かず。通り過ぎたところがおもしろそうだから入る。いい天気だからベンチに座る。今見た場所が好きだから今日もう一度来よう。食事がおいしくなかったがそれもいい経験だ。迷うも、食事の時間を逃すも、すべてが、疑いようもなく自分の責任になるというのがここまで精神的に楽だということ。いい意味でまさに「スイッチ」が入ったように自分の周辺状況を第一に考える。頭ではなく心や体が、自由だといっているような感覚です。

 

4.荷物・・普通にスーツケース利用です。バックパックは憧れますが、地面を引きずれる楽さに折り合いを付けるには。

→小さいサイズのキャリーを使ってから、もっと普段からキャリーを使えればと、思考が逆戻りしています。

 

5.対人・・積極的に声をかけ友達を、というのは全く得意ではありません。ラウンジで声をかけたり、旅先で友達を作るというのは本人にとってたやすいかもしれませんが私にとっては素晴らしい才能です。道や施設で人に聞くことには積極的です。

 

 

 

大体このような感じで、全体的にみると別に変わったところはありませんが、

よくみるとあまりその町にいる醍醐味を経験しようとしていないというか…

おいしいものが食べたい、きれいなホテルに泊まりたい

よりも

地元の生活に密着したい。旅行者としてではなく。

 

例えばスーパー、ホームセンター等「生活感」を感じられる場所に行って、

お客様向けの接客ではなくその町の自然体な接客をされたい。

 伊勢〇よりも西〇、西〇よりサー〇ルk

 もしかしたらそれが「その町にいる感覚」なのかもしれない。

 

例えば食べ物、名産品ももちろん試してみたい。

だけれどどちらかというと興味としては、スーパーで菓子パン、ジャンクフード、子供に人気の○○、cmでよく放送している○○…

私の味覚が雑だというのもあるけれど、皆が普段何を口にしているのか、この人たちに買ってもらえるように進化してきた味とはどんなものなのかを知りたい。

 

とにかく体験したい。

自分の興味のままに動きたい。

なので、立ち止まる、振り返る、話す、進む、迷うということを自分が感じるようにすることで自身の新たな興味に気づき、疲労を顧みずに足を動かし続ける。

なぜここまでの行動力を、実生活で発揮できないのかはわからない…

逆に、別世界にいるからこそストッパーを取り去ることが出来るのかもしれない。

 

写真に写るもの、時間感覚、移動距離とあらゆるものが二人の異なる人間を提示しているかのように見え、最近ではその境界を自覚するようになってからますます、はやくあの感覚に陥りたいと思うようになった。

一方で自分の両極端を知れば知るほど自分の選択に自信が持てなくなる。

「今の選択は、どちらの自分によるものか?」

この呼びかけひとつで途端にすべての選択肢を混沌の中へ陥らせる。

 

よってある種「あの自分」を旅行に期待しているのだろう。

どの自分が本当の自分か、というよくある答えのない問いに繋がるが、

本当にいったいどの自分が本当の自分なのだろう。

あの感覚を望むならば、少なくとも、堤防のない行動力や好奇心を併せ持つ性分に憧れているのは確かだ。しかしそれは本性なのか?一時出現するトラベラーズハイに過ぎないのではないか。

また「あの時の自分であればこれを選ぶ…」と、本当には望まない選択をし、疲れ果ててしまうのではないか。

これもまた実に消極的な議論である。

 

考えすぎてしまう、これもまた実生活中の特徴だ。

行動に先立つのが頭か体か、

どんな性格であるか、

どんなふうに笑うか、一歩目をどの方向に踏み出すのか。

 

答えは一向に出ない。

ただ自分をコントロールすることを覚えた。

 

 

 

ところで、本当の自分とは?このよく耳にする問い。

「すべてが自分だ」という言葉は的を射ていない。少なくとも私が期待する返事ではなく、そして何も解決せず発展もしない。

よってこの「すべてが」を言われた後、大抵の質問者が黙ってしまうのではないか。

何か違うがどう説明しなおせばいいのかわからない、という不完全燃焼感を抱えたまま。

 

 

「そりゃそうだ」

 

 

本当の自分、とは実は(あくまで私にとって)単に自分が最もストレスなく居られる状態を指す。

例えば、人によって声のトーンを使い分けてしまう癖があるとき「本当の自分の声がどれかわからない」と感じるだろう。それは、自分の声を無意識に変えている為筋肉負担がかかっている、何故だか体が疲れる、では疲れない声はいったいどうだったのか。

 

声は、地声というものがあり意識すればさほど難なく素の状態を見つけられるだろう。

だが思考パターンに関しては、あまりにも自分のすべてに影響をするために違和感の元を発見しづらい。在るのは「何かおかしい」といった本当に漠然としたものだ。

簡単な疑問に見えて、誰にも答えは出せない。しかし何とかして自分を「こういう人間だ」と定義したいのだろう。行動の基準がほしいのだろう。

 

本当のじぶんがわからないと発言した際に、その場にいた9割が「言っている意味が分からない」という反応を示すということを経験した。そして出たのが例の「すべてが」である。

…可能性として、「自分の知らない自分がいるはずだ」と受け取られたのではないか?

スピリチュアルな話だ。

私は「何の気づかいやプレッシャーもなく、もっとも自然体な自分が、既出のどの性格、性質、思考なのだかわからない」とあくまで自身の感覚を報告した。と、今考えると思う。

 

考えずとも生きていけるし、こんな事に時間を割きたくはない。

しかしそれが仕事や勉学にかかわってストレスを与えてきたとき、自動的にループにはまる。

 

いまだ自分がわかってはいない。しかしじぶんがいつ、どの状況で幸せ、楽しいといった内発的なエネルギーを感じたのかというのも要素としている。

一人でいるとき。感情の変化はさほどない。それはそれで、自然な自分かもしれない。

一方「一人でいる状況」が「一人になりたいから、友人の誘いを断った」結果ならばその交流の場を避けようとする自分はいったい何なのだ、と。

そんな自分の選択にすら疑問を持ってしまうほど、状況によって積極性であったり柔軟性に幅が出てしまう。

 

すべての言動や行動をこのようにして常に監視し、自信に判断を強いているのだ。

 

今読み直してもいかに自分の思考が疲弊に値するかを実感している。

 

旅行、もっといえば一人旅行は、反対側にいる自分になる時間なのだ。

 

 

そして思う、このように終わりのない問題に考えを巡らせている自分は本当の自分なのか?と。

〇言語の向き不向き

 

暑いなあ、そんな時には海の歌。

楽しいなあ、そんな時にはアップテンポ。

 

適当、適性、適職、適度、適温、

「ぴったり」を示す「適」

ものにはそれぞれ「ぴったりの場所」があり、理に適うときもあれば

何故だかわからないけどしっくりくることもある、不思議な現象です。

 

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私は言語自体について詳しく勉強をしたことはないのですが、

英語ではない言語を勉強してから、とても実感していることがあります。

 

「個人に合った言語はある」ということです。

 

私の場合はフランス語でした。

それよりも断然長い時間英語を勉強させられていたはずなのに、

自分が話すときに、そして聞くときにパズルのような感覚で

いろいろな部分でスムーズに運ぶ、と感じたのです。

 

「言語が好き、得意」っていったい何?どこから来るのだろう。

 

 

前述の体験は同言語に対して万人が体験するわけではなく

私が全く関心を持たない言語に「これだ!」と憑りつかれる人たちがいる。

一言でいえば「何語が好き」ということなのですが、

身体的(舌や口内)に扱いやすいなどの構造に関するものや

脳や耳が反応する…

(耳が喜ぶ、というのが一番おもしろい現象です)

追及していくと、個人が生まれながらに持った条件によって、ある程度の学ぶべき言語を予測することが出来るのではないかと。

 

私がフランス語に感じた部分

①活用=効率

→英語の勉強でつまずきを覚えた「もうどれでもいいよ」という熟語や過去形に対する異様な拒否感、生理的に無理、といえるほどの苦手意識がありました。

それが基本的に元の動詞の形を変えるという作業で大半を補うことになるのでよりシンプルな文章になります。

 

②アクセント位置の決まりが無い

→フランス語が流れるようだと言われる理由もここにあるかもしれません。

強く読む位置の制約がない為、ダイレクトに感情が伝わってくるようです。

 

③語尾のクセ

→doncのあとの吐息のような部分、beaucoupなどの「ウ」で終わる単語のあと、一息つくときの少し音が下がる部分。

アルファベット外の音が多く、音楽的です。

 

今すぐに思いつくのはこのくらいです。

結果フランス語の特徴を列挙するものになってしまいましたが

 

今回この文章を書いた理由は、

同じように何か好きな言語があるひとに

それは皆共通の感覚ではないから、ぜひそのたまたま持ち得た「好きだ」

という現実を大切にしてほしい

と、なんらかの勇気や気づきにれればと思ったからです。

 

言語と身体の関係から統計を得て適切な言語を学ばせるようにする

というのはどこかで見た「運動能力からスポーツの適性を…」の件に似て

必ずしも本人にとって幸せかどうかはわかりません。これは何にでも当てはまります。

 

だからこそ、もし自分好きなものが感情レベルを超えて「体が受け取る様子を見て」合っているかもしれないと感じることがあれば

細くでも続けてゆくと、財産になるのだろうと思います。

〇季節って、私たちにとって何だろう。

かれこれ前回から数えきれない日数を経ての投稿です。

自分でも驚くくらいのまめで無さ。

そして、のちに自分の書いたことを見て

「あんなこと思ってたんだ」ではなく

「あんなこと思ってたんだ…」となぜか落ち込むことが多いので、

正直ノートに書く日記よりも相性が悪い気がしています汗

ですが自分がその時々に思っていたことに、しっかりと向き合うことへの訓練だと思って

続けていこうと思います。

 

_____

 

最近、突然暑くなって、豪雨で。

少し前までは「あれ、今年は梅雨は無い…?」と何事もなかったかのように過ぎてしまうところでしたが、

そんなことは全くありませんでした。

 

一年で最も好きで嫌いな季節。始まるのも、終わるのもさみしい夏。

季節には一人一人違う好みがあって、恐らくその狭間に抱く感情も様々でしょう。

そしてその感情はその人の「感性」に影響を与え、影響されていることもあるのではないでしょうか。

面白いです。

 

ところで季節は、万人共通のものではありません。

 

もちろん日当たりが良いハワイやスペインに住む方と

日当たりの悪いロンドンに住む方の逸話というか、イメージはわかりやすいものですが、

 

もしかすると季節の間に、普段何気なく持つような哀しみ、不安、高揚、または「無」

 

そういったものが個々の「感性」として蓄えられていて、例えば芝居、歌、踊り…

それらの表現の場に、各国の民謡や伝統芸能と同様のアイデンティティとして

垣間見ることができたら

とても感慨深いと思います。

 

様々な環境に在る人物を集め、季節に関する価値観の違いだけに注目したとき

何か、違いが見つけられるのか。

 

漠然とした問いですが、

言葉にしてみると単純もの過ぎないのですが、

ちょっと興味深い、ただの好奇心からの疑問です。

 

自身が季節に本当に影響をうけやすいため、

季節が1種類の季節の国に生まれていたら。

歌や踊りで自分の感覚を外に出すことが好きですが、

それはどこに影響が出るのか。

 

考えて答えが出るものでもなく、堂々巡りですが

たまに

「このパートは冬に入る感情」

など取り入れると、いつもと違った動きを自分の体がするのではないかと。

 

 

自分が知らず知らずに作り上げた表現の素を探し出す。

自分の感覚より、人の感覚の中にどんなものがあるのか

見ていく作業も楽しそうですね。

 

 

実は本日、全く違う題材で書こうとブログを衝動的に立ち上げたのに

考えながら書いていたらひとつ書き終えてしまったので

今日はここまでにします。

 

書こうと思っていたことも些細ではありますが、またの機会に。