「好きなことをしたい」

 

「俺は好きなことだけやって生きていたいんだよ!!」

「好きなことを仕事にしたいのですが…」

好きなこと、というものは大小様々。

場所も、必要なものも、朝起きてすぐ出来るものから一生かかっても

実現しないかもしれないものまで。

 

私もそんな「好きなこと」を、思いのままに行動に移すのが苦手です。

ただしそれは将来の夢や展望に限ったことではなく、

たった今決断を迫られていることや

明日何する?今晩何する?

程度の話です。

 「生きにくそうな奴やな~^^;」

その通り、非常に一つ一つのことがしづらいです。

今日は同じような方の参考・励み…になればと思い、書いてみようと思います。

 

 

好きなことが出来ない。やりたいことをしたい。

「好きなことがわからない」ではないんです。してはいけない気がする、そんな感じ。

 

生い立ちとしては、

 

★物心つく前

何が、どこが、〇〇だからなどとは考える以前に「走るのが好き」「泳ぐのが好き」本能のままに好きなように動いていました。

 

★小学生~高校生(まとめすぎ)

この頃の自分の好きなことが本当に曖昧で…どこに行きたい、何を食べたい、きゃーおいしい!!なにこれ、生きててよかった涙

…これは今の自分です。

この頃は「知りたい」「行きたい」「会いたい」こういった欲求、それに伴う歓び悦びがあったのかなかったのか…

いいよ。が口癖。笑ってるだけ。なんか最近反抗してきてムカつく。

今思い出しても悲しくなってきます。お前何があった。

良くも悪くも都合のいい子でしたね。

そしてこの年頃が自分の中の黒歴史…というのか?黒い時代です。

その時考えていたのは「自分は好かれているか、どう思われているのか」ということでした。部活にも入っていたけど一度も家で練習したことなし、調べようとしたこともなし、、誰かに語りたいくらい!!!本当、すごかったですよ!

何を上手くなりたいとか、食べたいとか、あれのために頑張ろう、学びたい、やっとテスト終わったので〇〇できる~!!やだ~会いたかった~!感動した~!

これ、普通の日常ですよね。本当にありがたいことなんです。こういう「感情」がでてくることは。

 

★大学

入学時はなんの希望(望み)も無かったので「…特にやりたいことないし」

 

(ーーー訪れる転機ーーー)

途中で留学をして…変わって帰ってきました。

とりあえずアジア行けば変わるよ?なんてものじゃありませんよ。

 

①好きなものが分かる(コレクター気質に)

②行きたい場所がある

③会いたい人が居る

④知りたいものがある

⑤太った()

 

これだけで、本当に人生が充実したものになりました。

人と話すのが、新しい人と会うのがこんなに楽しいなんて!!!

町を歩くのがこんなに楽しい!これが自分の体なんだ!

嬉しい、幸せ、ありがとうございました!!

 

こんな感じに。

きっかけとしてはいろいろあります。

良いことも、良いばかりではないこともちょうどタイミングが重なって、今まで常に離れたところにあった魂が体に入ったような変化でした。

 

何より言われて衝撃だったのが「意識なかったよね?」「ふわふわっとしててこの子大丈夫かなと思っていたけど、なんだか変ったわねえ^^」

やっぱり変化はあったんだなと思いました。特に前者は非常に的を得ていて、意識はあってもいつも自分の中に押しとどめて他人のことばかり考えていました。

「あの人はこう考えている」「あの人と誰が仲がいい」「あの人は私が苦手だろう」…いつも周りの人間関係ばかりで頭がいっぱいでした。

これでは自分の欲求の出てくる隙がありません。

優しいだとかは言われていましたが、自分としては嬉しいわけでもなく何も考えていないだけなので特に感想はありません。

 

今でもあの人は…と考えてしまう癖はありますが、少なくとも同時に自分の会いたい人、ご飯に行きたい人、話してみたい人、どうでもいい人はなんとなくわかるようになってきました。

 

今現在は、このような感じです。

 

そして今度は、題の「好きなことをしたい」について。

したいことはわかりました。でも、直後に「良いのかな?」という規制が生まれるのです。

 

人とご飯にいっちゃいけない気がする

一緒に旅行に行っちゃいけない気がする

はしゃいではいけない気がする、じぶんは静かな子なんだから

愚痴を言ってはいけない気がする

夢を持ってはいけない気がする、どうせやりとげられるわけないんだから

テンションが上がっているのは自分のキャラじゃない

楽しそうに話してはいけない気がする

冗談を言っても笑ってくれないだろう

話しかけたら迷惑だろう

何かに優れていてはいけない

 

気が付けばこんなことばかり頭に浮かんでしまいます。

一見そんな複雑なことを考えているようには見えないと思います。

自信がありそうだとすら言われたこともあります。

自分の喜ぶことや好きなこと、耳や口が体がよろこぶものを知った点はかなり外見にも影響したでしょう。

ただすこし話してみれば自身のなさや緊張が露呈してゆくので、すぐに人なめられたり邪険にされたりされ(ていると感じてしまい)ます。まだまだですね…いつも心の底では嫌われる可能性を捨てられないのです。そしてそのことを自分でもよくわかってて、完全に受け入れられないので余計に違和感を醸し出してしまうのだと思います。

 

つまり、自分の欲のままに動いたら何と思われるかわからないから

できない。自分はすぐ家に帰らなければいけない。

友達と楽しく遊ぶなんて自分のキャラではない…

 

疲れますね^^;自分でも不思議です…

反動で人にはしたいことをしなといってしまうのも

あなたならその夢もとても似合うと言ってしまうのも

本心ですが、もしかしたら自分が一番言ってほしいのかもしれないですね。

 

特に解決策も無く、長々と書いてしまいましたが

なんだか苦しいなと得体のしれないものを抱えている方、

理由もわからず閉塞感に包まれてしまう方

こんな人間が居るよと、何らかのヒントになればいいなと思います。

 

こんなでも「楽しそう」「楽しむのがうまい」といわれますので、

いつかこれが本当の心からの自分になれることを祈って。

楽しめるような機会には心から自分の感情を味わえるように、心がけていきたいです。

 

 

「最近の若者」について、最近の若者より。 ※長文

 

責任感、忍耐、意欲が無い、前に出ない。。。

よくささやかれることです。

 

最近の若者、について、どう思いますか?

どんなお考えをお持ちでしょうか。

そして先輩方、ご自身の時代を振り返るとそこにはどんな風景がありましたか?

 

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思うこと。

若者、優しすぎる。

若者、まじめすぎる。

まだ若者の私ですら、ふと心配になるほどだ。

 

最近の~というのは主に企業内での話であって、不思議と年齢に大差ない学生時代には、特定の「文句」を耳にしない。

皆最低限「普通」に「問題なく」終えるべく日々の努力をしている。

社会に出た途端に責められ始める。そのギャップが大きすぎる。

 

昔は例えば運動をおこしたり、反社会的な歌を歌ったり、ということを10代からしていたよう。

 

一方問題に対して「社会問題といわれる行動」を起こさず、小学校時代よりとかく教師のいう事を聞き、厳密な回答以外を否とする算数に頭を悩ませ、家に帰ればせいぜい話す大人は親位であり、外遊びにも制限多く、、

こんな条件を羅列しただけでもどんな人間が出来上がるか想像も容易い。

 

そんな風にして自由の翼を一枚一枚抜かれながら過ごしているのに、

彼らは優しい。色眼鏡なしに、あらゆることにまじめに取り組む。

試しに例を出すと(くだらないかもしれないが)

合唱コンクールや運動会の為の朝・放課後練習に来ない男子学生を男子学生が説教(マジ切れ)

②高校卒業式後の飲酒など、選択肢にすら入っていない

③修学旅行で男女問題なし、普段の学生生活でも「更衣室が」なんて話は聞いたことが無い

④けがをしてきたと思えば、自転車でこけた、自転車に足を挟まれた、、、

 

もっと皆に誠実でありたかったと後悔にやまない、これらは全て単なるイチ公立学校での風景です。

 

今まで「最近の若者はなんだ」と言いがちだった方、

逆に心配になりませんか。私は今こうして学生生活を見返して、少し「キレイすぎるな」という感想です。

 

潔癖であること、完璧であること、一つの答えを導かなければならないこと。

時代は、世論は「多様性」を叫ぶのに

反して教育の現場は未だに、声に出さず「こうであれ」と囁き、

またそれを無抵抗に受け止める生徒たちの存在があります。

少し反抗的であってもあくまで周囲の人間に対するモノ、社会を憂いたり情勢に一石投じるようなものとは方向が違います。

 

 

子供たちが突然変わったのではありません。

子供を大きくする環境が変わったのです。

 

子供たちの意欲がなくなったのではありません。

気力の使い道が変わったのです。あるいは何としても生きようとする意志の、育つ余地が少なかった。

 

 

ただし若者がすぐに辞めてしまう現状に関しては、強く同意します。

しかしその兆候は、研修時代からでしたか?誠実に取り組みそうだから、採用したのですよね。

恐らく最初は背筋をピンと伸ばし緊張した面持ち、「ハイッ、ハイッ」と過剰なほどの相槌を打つ姿が在ったのではないでしょうか。

 

それが何故、何も相談せず仕事を抱えたまま、出社しなくなってしまうのか

不可解なことでしょう。大変な迷惑にもなります。

 

結論として言いたいことは、

最近の若者は劣っているわけではありません。

怠けているわけでも、何も考えていないわけでもありません。

今までの根性論に対してあまりに繊細すぎる、のでしょうか。

 

きっとその子に合った活き方はあります。

ただ自信がありません。

役に立ちたいとは思うけど、どんな形でなら役立てるのかわからない。

 

もはや異文化を持つ違う人種とし接し方を変える、と良いのかもしれません。

その為に冗談ではなく「何を考えているのか」聞き出すことも助けになるでしょう。

実は日々気を付けていることは何か、どんな時に喜びを感じるのか、苦手なことは何か、等。

 

己の内面は、外に出しつつ吸収し直しつつメンテナンスを加えて「自分」というものに作り上げていきますが、本来それは思春期と呼ばれる時期に躍進するモノでしょう。

 

情報にあふれながら行動できない自分の無力さを呪い、

規則には洩れんとする学生時代を送ってしまったアイデンティティは、もはやカオスです。

※私事です

 

自主や挑戦力のなさ、、もう社会問題ですね。

自ら起こさずとも存在自体を現象としてしまう。

 

最終的結論として、

怒りの矛先をひと息に「人格」へ向けないでください。

 

なぜこうもストレスに弱いのかと藁にも縋る思いであるのは、他でもない彼らでしょうから。

 

〇理想の鞄問題~多すぎる判断基準について~〇

 

今日は風が強いです。

こんな風が強い日、明日はいかにも雨が降りそうな。

 

晴れの日、雨の日、荷物の量、場所、、、

一番適した鞄を持ちたいと思うと、どうしてもいろいろなポイントによって、使うバッグが変わる。

 

私がバッグ選びで考慮するのは以下8つ。

 

①素材

・たくさん歩きたい時はナイロン等軽くて、雨に当たってもOKなもの。でもたまに物凄く重厚な革の、昔のがっちりしたスーツケースのような、ごっしりしたものがほしい時もある。夏は藁で編んだみたいなものもいいね。無性にダウンの入ったのがかわいいと思うときもある。

 

②ポケット

・なるべく収納が多いものが良い。でも、たまに凄くシンプルな、全く金具もポケットもついていないものがほしくなる。

 

③ハンドルの長さ

・肩からかけたい。ハンドバックに対するぬぐえない筋トレ的イメージ。そして絶対ひったくられるという恐怖。でもたまに、「何入れるためなの?!」っていう小さいバッグで、身軽に行きたい。

 

④ハンドル自身

・以前外出中に取っ手がちぎれた経験から相当な強迫観念が生まれ、全体の印象の次にハンドルの付け根を見るようになっています。本と水筒が入るかを無意識に考慮する私は…でもたまに、というか頻繁に、細いハンドルのものを持ちたい。携帯と財布とハンカチその他だけでいい、なんなら財布すら持ち歩きたくない!ひょろ~っとしたバッグにばかり目が行くことも。

 

⑤色

・もう黒とかベージュでいいよ…という安定を求める自分と、突然蛍光黄緑に目が行ってる自分。目立ちたいと目立ちたくないに揺られて。

 

⑥柄

・無地だったら何年先も、一年中使えるし落ち着く。というエコ&面倒臭がりな自分と、エスニック柄やそれ以上にがっつりと柄の入ったものに目が行く自分。

 

⑦マチ

・とりあえずは長方形の方が安定するから選んでいるけど、そんなわずらわしさもすっ飛ばして円とか四角を持ってみたい。

 

⑧チャック

・絶対についていてほしい。という安全を求める自分と、もうそんなこと気にしないでひょろっとした藁で編んだバッグが持ってみたい時。

 

⑨大きさ

・A4必須な自分と、携帯とハンカチだけで過ごしたい自分。

 

 

 

真逆の条件で悩んでます。

最近のマザーズバッグとか、ビジネスバッグなどが最高だと思う一方、頼りないショルダーバッグにあこがれと不安を持つ自分。

 

これだけ単純に真逆の鞄がほしいのであれば、それぞれ満たす一番のものを探せばいいけれど

そんなに簡単ではなくて、無数の鞄があればその分それぞれの鞄に魅力を見つけてしまって結局、いったい自分がどんなものがほしかったのかわからなくなって終わる。

 

鞄選びも結構体力が要りますね。

 

今回はひとまず。

 

 

 

 

〇ぴったりが安心?〇

 

3月半ば、窓を開けても外気の温度差を感じない、そんな少し違和感のある季節がまた廻ってきました。こんな生ぬるい温度の時期が一番落ち着きます。

 

。。。

話は大きく大きく全く関係ないところへ変わりますが、私は小さいころから、歌うことはとりあえず大好きでした。ただのど自慢大会に参加するとか、バンドを組むとかカラオケに行くことですらそういった発信することは一切しなかったので(引っ込み思案)、周囲には私が歌っているイメージはゼロに等しいはずです。

保育園の連絡帳にも書かれていました。

ほんとうはキッチンでもお風呂でも熱唱してしまうので、なんででしょう。

恥ずかしいんですかね。

 

そこで、最近というかずっとじわじわ感じていることがあります。

歌手がライブでアレンジしたときに「これじゃない感」を感じてしまう、んです。

 

これってどうなんでしょう。つまらない奴だ、と。自分では思います。

自分が次に来ると思っていた音が来なかったときの軽い落胆。思っているリズムを外れたときの、焦り?

音程とリズムがなじみある物の方が安心するんです。

 

ですが。

外国語の歌は割に大丈夫な気がします。

 

ここまでは、私個人の問題でしょうということですが、

・SNSやYouTubeでの歌ってみた

・うたうま番組

 

うまいと言われる方々は皆、きちんと音程が取れているかどうか。

カラオケの採点機能は象徴といえます。

 

ですから、在るべきところにきちんと当てはまっているのを美と感じるような気質がはぐくまれたか、

はたまた日本と外国語(一概に言えませんが)は、アレンジのかけ方が違うか、、、

慣れ親しんだ言語ではないから、歌詞含めた全てがメロディとなってリズムを重視しなくなるからか。

 

 

物凄く主観的な問題提起かつ結論になりますが汗

同じことを感じる方はほかにどれくらいいらっしゃるんでしょう。

 

あ、あともう一つ、割に外国語の歌は伸ばす音の時に音程の上下で表現を加える場合もおおいですね。

日本語は、ひとつだけの音を高くするとか、入りを溜めてみたりとか。

イメージですが^^;

 

最終的には、単なる文化の違い?

どうしてこの違いが生まれたのでしょう。

 

どちらが良いということではありませんが、おもしろい風潮ではありませんか。

〇銀座区立小学校制服について、経験を交えて〇

 

 

小学校、記憶のかなたに飛んでいったかな?と思いきや、まだまだいろいろなことが思い出に残っているものですね。些細な面倒だったこと、些細な感動したこと、些細な傷ついたこと、感謝したこと

私は町中に立つごく普通の区立小学校で育ちました。特に有名人がどうとか、何に特化しているとか、そんなこともあったかなかったのか判らないくらい普通に住宅地に溶け込むいち小学校。そんな環境でも、瞼によみがえる経験は数多くありました。

 

今巷と国会で話題になっている「アルマーニ標準服」案件。

あまり周囲の意見は聞いておりませんが、皆さんはどんな風にこの決定を受け取られたのでしょう。

 

個人的には、あまり芳しい決断ではありません。というより、校長が制服に何を求めるかという所に共感できかねるのです。

 

※まず前提として「標準服」とは本来着ても着なくてもいいよ!という物です。が学校という現場で予想される通り、私の中学生時代は100%が着用する当たり前の存在でした。まして入学を考える価格となれば、その中で自ら非着用を敢行するにはかなりの覚悟が要ります。

 

 

ーその価格もさることながら、高価な制服を導入することで小学生の所属意識を高める

方針に疑問を持ちます。

 

まだまだ体を育て、同時に周囲との関係をはぐくむのに忙しい時期にどれほどの子供たちが、制服や学校に対する誇りを持ち得るでしょうか。私に関していえば先生、様々なバックグラウンドを持つ友人から得る世界、独自の授業(ハンディキャップの疑似体験等)は特に貴重であったと思っています。

何ならばちゃっかり先生がバッグにお菓子をたくさん詰めていた(事故的に判明し、はぐらかされ決してもらえず)ちょっとアウトな思い出すら、先生を身近に感じさせてくれた一コマでした。

 

これでも何のブランドも持たないただの小学校です。

 

あれほど公に誇れるような小学校なのであれば、きっと学習要綱面で試行錯誤されているでしょうし、それを求めていらっしゃる親御さんもすでに多いのではないかと想像します。

 

校長先生はご自身の小学校時代何を大切にし、今何を伝えたいとの思いをお持ちなのでしょう。もしかしたら決断を焦ったのかとの推測もします。

 

今後、大人子供かかわらず何かを教え、支える立場となった時自分は何を残したいと思うだろうか。何にお金と想像力を注ぐべきか。久々に想像を膨らませました。

〇個人情報で身を飾る未来〇

 

近年急速に、個人認識の手段が顔・網膜・指紋等の身体へと移っています。

またマイクロチップを体内に埋め込む~に至っては「データ」を持ち運ぶことが可能です。
持ち物が格段に減りながら、常に必要な情報と共に在ることが出来るというのは魅力的です。


ところでこれが進むにつれ人体そのものが危険に晒されるリスクは非常に大きいといえるのではないでしょうか。

 

現在でも恐喝や暴行等で本人から情報を引き出すやり方は存在します。
ですが比較的現金、紙面、機器などの人体と距離を置いた「物体」に役割を持たせることで、盗まれる、すられる、ひったくられるという安全策を取れていた気がします。

 

重要なものを人体に近づければ近づけるほど、関連させれば関連させるほどリスクを個々の身に近づけるように思います。

今はまだ日常生活の中では携帯電話等、超私的に用いるのが大半であり、さほど危機感はありません。

 

将来、ロック解除などにも適用されれば極端な話、目の前の個人にかかわる情報は全て目の前に揃う状況が完成します。

私はこの進化に対し上記のように疑問を感じています。
大変勇気ある行為だと思うのです。

 

私が先端技術に疎いゆえか、機械に疎い為かはたまた生まれながら、既にある程度の技術が揃っていたお陰でか

このような「新しい技術に対する不安」はとても新鮮であり、昔テレビや車に向けられた感情を味わっているように感じます。

 

こう書きつつも未来での私はそれらを受け入れているのでしょうか。

とても興味深く、注視したいと思います。

〇ふと襲われる「持っていていいの?」という感覚〇

 

冬も一段と深まり、誰かと速足で歩きながら交わす会話も

好きだなと思う日々です。

 

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今日は特に紹介記事でもなく、自分の内面について。

 

たまに襲われる、自分の持ち物についての違和感。

これは一体何なのでしょう。

 

衝動買いしてしまったから、ではなく。

自分が吟味に吟味を重ね、何週間も、また1年前からほしいと思っていて

ついに自分にぴったりのものを見つけた!!

それなのに、

 

ふいに、これは本当に自分の手元にあるべきものなのか?

自分なんかが持っていておこがましくはないかと

無性に申し訳ないという感覚に襲われるときがあるのです。

 

普段からあまり衝動買いには至らず、本当に気に入ったと思うものを周囲におきたいと注意して買い物をしているので

良く言う「いつか使う」が大抵訪れる(やっかいですが)たちです。

「どうしてこんなに素敵なの?」と語りかけられるくらいに自分の持ち物には満足しています。

逆もまたしかり。ジップロックやタッパー、100均も助かる存在です。

 

 

ところで、この「気に入ったものだけ」という状況は数年前からブームとなる片付け術に通じるものですが、

少しものに自分を写しすぎているのでは、と思うのです。

 

「ゆだねる」「投影する」「同一化」等々言葉選びが難しいのですが、

つまり「物」と「自分の存在」を強固に意識しなければならない。

私の場合の物選びは、そういった感覚です。

 

『あまり気に入っていないものを見せたくない、それは自分ではないから』

 

大切で、思い入れがあるからこそ、それ以外を身につける自分は自分ではない。

周りにある物すべてが私を表すもの、自己表現

 

ですから例えば歌やダンスに自分のすべてを託すときに魂を込めるように

写真を撮った時気に入らない写真は人に見せられないように

自分が認めた以外のものはおけない、人にさらせない

更には物が存在するには認めるための「理由」が必須である…

 

これは少し究極的に描きましたが、

持ち物にこだわりがあるというの頑固に見えて、じつは当人も辛いのかもしれません。

 

数年前特に考えず流行の服を買い物を買い、をしていたころは在る意味物とのつながりも薄かったように思います。

 

長年使えるものを買うのがもっぱらの私の常ですが、

もう少し気楽に、周りの空間と付き合う方法はないかと考えています。